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第五十五話 フェイント
週明け、青南学園に、予定通りに葉月が出勤していた。
部活動停止に加え、葉月の担当授業もなく、直接会うことはなかったが、伊緒が廊下で見かけたことを、放課後に六堂に会った際に伝えたのだった。
「おう…そう。ちゃんと取った休暇内で戻ったんだな、先生。ったく、連絡もよこさないで…。無事で何よりだけど」
葉月は、入院を理由に一週間の休暇を取ってサノスゾロニアの研究開発に関わっているとされた人物、“勅使河原”がいるらしい“八王子市上恩方町”の山奥へと出向いていた。
そこで何があったかはまだ分からないが、とにかく無事で良かったと、六堂は心から思った。
「まぁわかった。あとで、こっちから先生に電話してみるよ」
今日も伊緒は、六堂の自宅兼事務所のある南青山に来ていた。
葉月帰還の話はそのついでだった。
南青山の高低差のある閑静な住宅街のジョギング10キロ。
やまひろ食堂の側にある“三角公園”で、ロープスキッピングとシャドートレーニングを20セット。
それらをこなしたあとに、六堂が軽い組手の相手をする。
今日は六堂が倉庫で付き合えないので、そんなトレーニング内容だった。
伊緒にとっては六堂と二人で過ごすこの時間は、はっきり言って至福だ。
一昨日の才邪の指導に比べれば、デート気分だ。
才邪の指導…。
「気功術に頼らない。いいか?」
一昨日、倉庫で才邪の指導を受けていた時に厳しく言われた課題の一つだ。
気功術の一撃の威力は、全体重の二倍から三倍の威力まで跳ね上がるが、全力での連打は出来ない。
そして一撃必殺と言いたいが、その使い手が軽量だと、体重差がある相手の場合には倒しきれないことも稀にあり、自身の体力消耗も否めない。
どちらかと言えば、相手の攻撃を受けなくてはならない時、つまりヤバい打撃に対しての直接ガードの瞬間に気功術を使うことを勧められた。
そもそも、気功術を使わない攻撃で相手を倒せる技術を持っていれば、いざ気功術を使う時にはより精度が高くなるわけで、その技術が伴わないのに半端な気功術を使うことはよくないと、強く言われた。
少なくとも無門会の軽量級“岩倉 弥助”は、気功術の使い手ではなかったが重量級の相手に勝っていたと、才邪は繰り返した。
「攻撃は、当てるべき箇所に当てれば、全力を出さなくても倒せんの。伊緒ちゃんは速いけど、ちょっと的がテキトーなんだべよ。それに常に全力出してたら体力ガス欠になっちまう」
そう。
才邪は力を抜いて、動きを遅くしても、何故か伊緒にまるでロックオンでもしているかのように、その攻撃が当てることが出来るのだ。
「いいかい、フェイントはフェイントのためのフェイントでは意味がねえのよ」
伊緒が、才邪の攻撃を避けられない、防げない理由は、フェイントにあると説明を受けた。
格闘戦において、手足が二つずつしかない人間の攻撃は、どうやってもその攻撃パターンは限られる。
その中に置いて、フェイントは重要なに技術だ。
相手の目を騙し、リズムを狂わせるためのフェイント。
しかしそのフェイントは、“フェイントだけのために出しても、フェイントにはならないと言う。それこそが、相手に攻撃を当てるコツだと、才邪は説明した。
「フェイントを、フェイントの気持ちでやってたら、強い奴や、経験値の高い奴には、それがフェイントだってバレんの。伊緒ちゃん直前的だから、分かりやすくて」
それが課題二つ目だった。
才邪曰く、フェイントは“当てる気“ で出すという。
「“これはフェイントだ”っていう気持ちじゃなくて、本気で当てに行く、解る?」
一昨日の彼の指導で一番難しかったのが、それだ。
伊緒は頭を悩ませた。
当てる気で出すから攻撃になり、当てる気がないからフェイントになる。そういうものではないのかと…。
伊緒から言わせれば、如何に気持ちに当てる気があってもフェイントはフェイントであり、言われた通りにしても、才邪には一発も当てられなかった。
「難しいか?確かに感覚的な部分があるから、頭で考えても出来るもんじゃあないな」
“藤村 健二”。
無門会空手 吉祥寺支部の支部長であり、中量級において過去、無門会全国オープントーナメントで四度の優勝経験のある人物。
「フェイントについては、その人がそういう持論語ってんの。俺はそれを参考にして、我流で磨いたんだけど、もし機会があったら吉祥寺に出稽古でも行ったらいいんでないか?」
藤村 健二が現役時代につけられた呼び名が“ノックアウトアーティスト”だ。
空手家でありながら、ムエタイスタイルを主とする特徴が有名だったが、何よりその打撃のヒット率、KO《いっぽん》率が半端ない。
四回の全国優勝の内、決勝に至っては全て打撃による一本勝ち。
戦った相手の多くは、「分かっていてもかわせない」と口を揃えて言ったらしい。
伊緒は、才邪のそんな話を思い出しながら、六堂との組手を行っていた。
「あいだーっ!」
だが、見え見えのフェイントに、六堂の見事なカウンターが直撃する。
「おわ!ごめんごめん、深く入っちまった」
苦笑しながら、手のひらを立てて謝る六堂。
鼻を押さえて涙目の伊緒は、本当に痛そうだ。
「どうした?何か伊緒の持ち味のスピードはないし、変なフェイント入れるけど、そのせいで攻撃のテンポ遅いしさあ」
思わず拳を当ててしまった六堂は、その言い訳ではないが、伊緒に動きの指摘をした。
伊緒自身もそれは解っていた。
「くううぅ……。いったたぁ。さ、才邪さんの指導通りにやろうとすると、まどろっこしくて叶わないよ。伊乃さんは、当てる気でフェイントって出せる?」
伊緒の質問に首を傾げる六堂。
「…あ?何だそれ」
「才邪さんが言ってたんだよ、フェイントは当てる気で打つから意味があるって」
六堂は、眉根を寄せながら頷いた。
「あー…はは、なるほどね。まぁ、やれと言うなら多分」
「え?やってやって」
伊緒にせがまれると、六堂はため息をつきながら、拳を顎の辺りまで上げて構えた。
「お!マジ?やれちゃうやつ?さっすが伊乃さん」
「…言っても、俺は格闘家でも武道家でもないから、伊緒が求めるものに当てはまるか、分からないぞ」
伊緒も、構えを取る。
「それじゃ…軽くな。スピードは乗せないで、スパーの感覚で行くぞ」
そう予告する六堂に対し、それなら当てられない自信があると思った伊緒は、ニンマリと笑った。
「もし私に当てられなかったら、そこの食堂で、またゴチしてちょ」
「はあ?何でだよ」
「いいじゃん」
「…ったく」
六堂は、仕方ないなと言わんばかりの顔を見せると、一呼吸置いた。
そして次の瞬間、軽い踏み込みを見せ、その流れから左のジャブを放った。
――左ジャブ!
伊緒は、顔に飛んでくる拳に対して、パリングでその軌道をずらし避けようとした。
その鋭い反射神経は、見事に六堂のジャブのタイミングに合わせた…
そう思ったが、伊緒は目を広げ「え…!?」と小さく声を漏らした。
トンッ…と、腹部に感じる軽い圧迫感。
触れていたのは、六堂の左脚足のつま先。
前蹴りだ。
六堂の伸びた左脚が、伊緒の腹部に向かって伸びていた。
「えーー!ちょ…ちょちょちょ…」
驚いた伊緒は、大声を上げた。
そして六堂のフェイントの凄まじさに唖然としてしまった。
もはや左ジャブがフェイントだったかすら分からなかった。
間違いなく拳が飛んできた。
そう思ったのだ。
だが、飛んできていたのは足。
結果について、本当に目を疑ってしまったほどだ。
「何今の…」
「左ジャブのフェイントからの左前蹴り」
「…いや、でも」
「でも、何?」
「ジャブ飛ばしたよね?」
「いいや」
「うそだー」
「嘘じゃないよ。嘘じゃないけど、そのままジャブを出して当てる気もあったし、どっちでもいいかなって…」
「くあぁぁ…」
自分の未熟さを改めて知り、肩を落とす伊緒。
そんな彼女に六堂は、背中をポンポンと叩いた。
「ま、落ち込むな、やまひろで飯奢ってやるから」
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