第五十六話 負傷

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第五十六話 負傷

 夜、足立区五反野。  五反野駅からほどない場所にある賃貸マンション“エルディム五反野”。  七年前、六堂や才邪の前から姿を消し、方々を転々とした後、密かに東京に戻ってから住んでいる場所だという、葉月の自宅だ。  稽古後、伊緒を車で自宅まで送った六堂は、帰宅せずに葉月の住むそのマンション前まで来ていた。  伊緒には、“あとで電話をしておく”と言ったが…、八王子から戻った葉月の方から連絡が来ないことに何となく違和感を覚え、急遽、直接会いに行くことを考えたのだった。    正直言えば、早く帰って片付けたい本業の方の事務仕事もあり、向かうつもはなかった。  それでもサノスゾロニアが関係している以上、きちんと話を聞かねばと思ったのだ。 『い、伊乃か!?』  マンション入り口で、一階エントランスを開けてもらうために部屋番号を押してインターホンを鳴らすと、スピーカーから聞こえた葉月の声には、あからさまに動揺が感じられた。  いつも冷静な彼故に、珍しい。  突然、連絡もなく人が訪ねてくれば、誰でも驚くだろうが、またそれとは違う焦りのようなものを感じた。  六堂の予想通り、八王子で“何か”があったのだろう。 「突然すみませんね、開けてもらえます?」  数秒の沈黙のあと、葉月は自動ドアを開けてくれた。  あまり来てほしくなかったのだろうことは、沈黙で伝わった。   その理由は、部屋に通されてすぐに分かった。  真っ赤に染まった包帯が、フローリングの上に捨てられていた。  その側に座り込み、当の本人も、脂汗を流していて辛そうだ。 「これは…先生、どうしたんですか?その傷?」  上半身裸の葉月は、自分で包帯を巻き直そうとしていた様子に、六堂はため息をついた。  そして葉月の側で屈むと、背中に周り、包帯を巻くのを手伝い始める。 「先生、今日は仕事行ったんでしょ?」 「…ああ、聞いていたか」 「まさか、この傷隠して普通に授業してたんですか?重傷ですよ」 「…休暇は一週間だったからな」 「真面目だなぁ…。で、何ですかこれ?山で熊と遭遇したとか?病院行かないとダメなやつですよ」 「熊なら普通に病院も行けただろうがな。勅使河原だよ…、奴にやられた」  包帯を巻かれる度に、痛みを堪える吐息が漏らす葉月は、苦しそうに答えた。 「…夕紀の得た情報通り、いたんですか」 「ああ…」  山奥…。  夕紀が調べた情報通り、八王子市上恩方町内。  町内ではあるが、話に聞いた通り、人里から離れ…主要道路からも外れ、林道や山道すらない、山奥の住所もないその場所に、勅使河原の研究施設があったという。 「…研究施設というより、見た目は少し大きめのログハウスと言った感じだった。大まかな場所しかわからなかったからな、足を使って探すのに、三日ほど掛かったよ」 「確か、夕紀は“太牙(タイガー)”の斑目に、サノスゾロニアの売人のことを吐かせたって…。その売人は、そんな山林にどうやって出入りしていたんです?」 「ああ…そいつは売人ではなく、勅使河原の助手らしい。そして移動は一人用の小型ヘリだ。夜遅く、山奥から飛び立つ小型ヘリに気づく者はいない…何機かあったよ」 「それでも、どこかに着陸はするわけでしょ?燃料だって…」 「そう、移動先を調べるにも時間が掛かった。だがその前に、勅使河原が何故今尚、サノスゾロニアの研究をしていたか…。いやそもそも研究をする資金は…?その問題が気になってな…」 「判ったんですか?」  葉月は、首をゆっくりと横に降った。 「聞き出すのは、難しかった。現場は、護衛で固めていた。売人役の助手からの連絡が途絶えたからだろうな…」 「護衛って…傭兵とか?」 「まさか…半グレだ。“太牙”の武闘派を雇っていたらしい」 「そんな山奥までご苦労なこった。自分たちの組織がどうなったか知らなかったのかな」  六堂はぎゅっと包帯を絞ると、葉月はうめき声を小さく漏らした。 「…で、この傷は、かつての伝説の裏武術家が、マッドな理系男にやられたわけですか?」 「嫌な言い方するな、お前…。ああだが…半グレ共を倒したあと、慌てた勅使河原は、薬物を自らに注射した…」 「サノスゾロニア…ですか」 「そうだろうが、これまでと違っていた…。細身の男の体の筋肉が、瞬く間に隆起したよ」  そう言い、葉月は特に痛み酷い左脇腹を押さえ、深く息を吐いた。  葉月も裏社会で、普通とは言い難いものを数多く見てきた。かつて二度目に戦ったジェラルド・郷道も、その一つだろう。  サノスゾロニアに適合したジェラルドは、まさに超人だった。  だが、勅使河原はその粋を遥かに超えていたという。  マッチ棒のような男が、目の前で、葉月曰く“全盛期のシュワルツネッガー”のような肉体に変化したのだから。  勅使河原の、筋肉が隆起していく様は、変化というより、変身と言ってさしつかえないと語る葉月。  そしてそれを見た時、衝撃を受けると共に、あまりに馬鹿げていると笑いが込み上げたと付け加えた。  人が肉体を強化するのに、どれだけの時間を掛けて、そして精神力と体力を浪費するであろうか。それは気の遠くなること苦労だ。  それを目の前の男は、一本の注射でそれを無し得た姿に、葉月はどこか喜劇でも見ている気持ちになったのだ。 『何が可笑しい?』  驚きの表情のあと、口角が上がった葉月を見た勅使河原は、目を細めて、そう尋ねたという。 「え、本当何で笑ったんですか?」  六堂も話を聞いて、気になった。  その時のことを思い出す葉月は、うすら笑いを浮かべ、小さく首を横に降る。 「私は、武術家として、人が強くあるための苦労を嫌という程知っている。それを奴は、化け物的とはいえ、簡単に成す様に思わず笑ったんだよ」 「そんなに凄かったんですか?」 「ああ。だがな、そんな私に勅使河原は呆れた顔でため息をついたよ。脳筋には、研究と失敗の繰り返しに費やした気が狂いそうになる日々は理解できまい…とな」  互いに理解し合えない苦労ではあると思った葉月は、サノスゾロニアについてよ話を聞こうとした。  しかし、勅使河原から詳しい話を聞き出すことは出来なかった。  襲ってきた勅使河原の強さが尋常でなく、少しの手加減も出来なかったからだ。  いいや、手加減どころの話ではなく、単純に筋力で言えば葉月を遥かに超えていた。 「タフさもな、ジェラルドどころの話ではなく…奴とログハウスごと焼き払って、何とか逃げたという、お粗末な話だ…」  話を聞き終えた六堂は、葉月に薬箱はないかを尋ね、その中から痛み止めになりそうな薬を取り出し、コップに水を入れて、手渡した。 「…ま、とにかく無事戻って嬉しいです。それに研究施設は焼き払って正解ですよ。サノスゾロニアに関わることを調べる必要はありますが、そんな恐ろしいものが世に出回っては行けないですからね。怪物もね」  そう言うと、六堂は携帯電話をポケットから取り出し、裏社会時代から付き合いのある闇医者に電話を掛けた。  今から行って葉月を治療してもらえるか、確認をするためだ。 「…さ、先生。その怪我じゃ、明日の授業もキツイですよ。俺の知り合いの闇医者んとこに行きますよ」 「…そうか。すまんな」 「いいえ。いやぁしかし、これはあれだ!部活動の停止も、丁度良かったじゃないでか、ね?」  伊緒と島崎の、路上で喧嘩した件を隠していた件で葉月に怒られた六堂は、ここぞとばかりに、部活動停止について、わざとらしい口調で言った。 「…お前、優しい顔して本当嫌なこと言うなぁ」  葉月は、苦笑し、目を細めた。 「俺は、ほら、飴役ですよ。厳しい先生が二人じゃ、部員らも気が滅入るでしょうから」  六堂はそう言い、ニンマリと笑みを浮かべた。
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