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第五十八話 ミドルキック
藤村は、嬉しそうな顔でミットを持っていた。
大会等での実績のない人間、または紹介のない人間からの出稽古の申し出は基本的に断っていた藤村。
だが、連絡をしてきた六堂から、“支倉 舞”のお墨付きの女の子だと言われた。
“支倉 舞”。
伊緒が無門会空手ルールを知るのために立ち会いをした、オープントーナメント女子部の全国王者だ。
当然、藤村は団体関係者として、よく知っている人物だ。
疑っていたわけではないが、藤村は、念のために舞に電話で確認を取っていた。
『ご無沙汰してます、藤村支部長。急に電話なんて、どうしたんです?』
「実は、お前が認めてるって娘が、うちに出稽古したいって連絡あってさ」
『え?誰ですか?』
「青内って青南学園高の女子生徒らしいんだが」
『え?ああ…。そうですか、あの娘が、支部長のところに出稽古ですか。きっと…気に入りますよ』
舞と、そんなやりとりもあり、申し入れを受け入れたのだ。
正直、話以上に実に教え甲斐のある娘が来たと思った。
技術、力量確認のためにミット打ちをさせたところ、想像を超えたスピードと威力。
「いいね!青内ちゃん!完璧じゃねえの」
勿論、打撃のスペシャリストとしては、問題点は幾つか見つけた藤村だが、基本的な部分で教えることはないと理解した。
それも聞けば、武道を初めてまだ二年目だということに、重ねて驚いた。
「あ、いや、勉強も遊びもそっちのけで、毎日稽古してたんで…。今は伸び悩んでます」
伊緒は苦笑しながら驚く藤村に、そう答えた。
そう、若者は、何かしらに夢中になるもの。いわゆる何かに“ハマった”時の覚え方、集中力は無限大のエネルギーを発する。
そしてその多くは、流行りの芸能人やアーティスト、ファッションに恋愛、あるいはアニメにゲームと、個々人それぞれあるが、大抵は“青春”の二文字を楽しむものであり、それは実に華やかで楽しい貴重な時である。
それが、伊緒の場合は“”武術”。
それも葉月の指導の元で学ぶ武術が大きな青春になったということだった。
「ええ!?青内ちゃんマジ??デートとか?彼氏は?」
「…い、いたことないです」
「華の女子高生が…勿体ねえ。くううっ。でもそれ、あっちで練習してる野郎共には言うなよ。がっついてくるから」
「…そ、そうですか?覚えておきます」
ある意味、伊緒の武術=青春の中には、六堂との稽古が“恋愛”に該当していると言えた。
伊緒が学内でも他生徒と比べて変わった娘でありながら、しかし本人は誰とも何ら変わらない満足の行く青春を過ごしているのだ。
過去の苦しい体験も、強くなるための原動力だが、楽しく夢中になれることで、短期間での著しい成長に繋がっていた。
「さて、ミットは十分かな」
藤村は、ミットだけで、伊緒との組手の力量確認の必要がないことも、理解した。
打たせるだけでなく、意地が悪いことに“予告なし”でミットを持った手で、基本的な攻撃を入れ込んだが、伊緒は驚くこともなく、全て避けてみせたのだ。
見事な反射神経だと感心した。
更に言えば、三分をニセット打たせて、殆ど伊緒の息に乱れがないことに感心した。
どんなに心肺機能を高めていても、知らない相手や慣れない場所でのミット打ちは、どこか力んでしまい、息切れを起こすものだが、伊緒にそれはなかった。
藤村はそんな彼女を見て年甲斐もなくウキウキしていた。
「君を育てた先生は、凄いな」
「…そ、そうですか。ありがとうございます。伝えておきます」
伊緒は、藤村にそう言わせたことで、六堂や葉月の偉大さをいつもより実感した。
「さって、じゃあ、時間も限られてるし…。フェイントについて習いたいらしいんで、そいつの勉強をしようかね」
「お、お、おっす!ぜひ、お願いします!」
藤村は、ミットを置くと、オープンフィンガーグローブを両手に、レガースを両脚に装着た。
ミット打ちで既にオープンフィンガーグローブを着けていた伊緒は、両脚にレガースを装着する。
「あと残り四十分…か。その時間内で、あれもこれもはできねーから、ミドルキックをベースに、フェイントと当て方を教えるとしよう」
マットの上で、向かい合うと、藤村はそう言った。
伊緒の拳による速さは、素晴らしいことは分かったが、打つ時に瞬間的に力む癖があり、勘のいい相手なら、それを読まれるだろうと判断した、藤村。
本当はそのパンチの癖から直したいところだったが、打ち出したあとのスピード自体はかなりものなので、蹴り技の精度を上げることで、よりそのパンチが活きるようにするのがベストだと考えた。
蹴りが活かされれば、パンチはより活きると。
「ミドルキックですか…」
「そ、ミドル。“中段回し蹴り”だ。青内ちゃんには、中段回し蹴りに、どんなイメージがある?」
伊緒は、あまり中段回し蹴りを使うことがない。
得意の攻撃と言えば、持ち前の瞬発力で相手の懐に入り込み、そして死角である真下から打ち上げるハイキック、いわゆる“上段回し蹴り”だ。
撹乱のためにローキック、いわゆる“下段回し蹴り”を使うことはあるが、中段回し蹴りはさほど使うことはない。
夜な夜な行っていた悪者退治では、金的を蹴り上げることはあったが、回し蹴りではない。
伊緒は小柄だ。
それは本人が武術を学ぶ上で一番の弱点であると考え、理解していた。
これまで立ち会った相手は、大小差はあれ、殆どが自分より大きい人間ばかり。
瞬発力でそれをカバーしている中で、中段回し蹴りが有効な手段と感じる場面は少なかった。
中段回し蹴りは打ちやすいが、そのモーションから相手は反応しやすく、避けられることは勿論、防がれたり、さらに脚ごとキャッチされやすくもある。
伊緒はそのことを実感しており、自然と中段回し蹴りを使うことはなかった。
最悪なことにキャッチされようものなら、リーチが短く軽い伊緒は、簡単に反撃をもらってしまう。
「…なるほどね。確かに青内ちゃんは、速い。パンチの打ち方も、攻撃の避け方も実に速い。足腰も強そうだ。プロでも行けるんかなと、俺は思った」
「そうですか。あ、ありがとうございます」
「うん。でも、でもだ…それでも攻撃に偏りがあれば、実力者はそのことに気づく。“ああ、こいつパンチしかねえな”とかね」
藤村はそう言うと、両拳を顔の辺まであげ、背筋をピンと伸ばし構えた。
人が格闘戦においてよく見る、体重をやや前に乗せた前傾姿勢ではなく、体重比を前後均等にし、開いた足のスタンスが狭い構え。
アップライトと呼ばる蹴り技主体の立ち方で、ムエタイ競技での構え方だ。
藤村は、無門会空手を代表するムエタイスタイルを使う人物であり、直弟子の殆どが、同じスタイルを使う。
他競技でムエタイの技術を取り入れた日本最初の人物と格闘技界では言われていることは、伊緒は後に知った。
「青内ちゃん、中段回し蹴り、軽く打ってみて」
伊緒も構えを取り、体重を乗せない中段回し蹴りをポンと放った。
それをガードし、藤村は人差し指を立てて左右にチチチと振った。
「それは“空手の回し蹴り”の打ち方よ」
「空手の…?ダメなんですか?」
藤村の言っていることが、よく解らない伊緒は首を傾げる。
「青内ちゃんの蹴り方は綺麗だし、それでも一定通用するとは思う。でも、無門会空手ルールは、他のフルコン空手や伝統派空手とは異なり、キャッチ出来る上に、テイクダウンもOKなわけよ」
「お、おぅ…おっす。そうですね」
「おまけに道着の掴みOKの実戦さながらのルールだから、捕まった時に裸の格闘技より、逃げ出しにくいことがある」
「おっす…」
「だぁかぁら、今の回し蹴りは危険なのさ。モーションが大きい。それでもミドルを押し込む強烈な空手家は多々いるけどね。ただ青内ちゃんは、そんな体格はないから…」
そう言うと、藤村は伊緒に向かってゆっくりとキックのモーションを見せた。
藤村の右脚が伊緒の左脇腹に触れる。
「これが当てるための中段回し蹴りよ」
藤村の見せた、中段回し蹴り。その軌道を見た伊緒は、驚いた。
「え?えー?」
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