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第五十九話 ミドルキック
藤村の見せた中段回し蹴りは、“回し蹴り”というより、斜めに蹴り上げるようなフォームだった。
――んー…、ん?んん?これが中段蹴り?
殆ど“真っ直ぐ”と言って差し支えない軌道。
異名“ノックアウトアーティスト”とたる何か“スペシャル感”のあるものだと思っていた伊緒だが、はっきり言って感動はなかった。
ポカンとする伊緒に、藤村は蹴りの軌道位置を確認のために手で動かして示す。
「ほれ、この軌道、ここ、こうな?これがベストな中段回し蹴りよ」
少し首を傾げる伊緒。
「えっと、これはつまり…」
「距離。相手との最短距離を蹴る。それが大事なわけ」
「あぁ……。でも…何となく、この蹴り方だと威力が減りませんか?」
伊緒は、ゆっくり藤村のやって見せた中段蹴りの真似をしながら尋ねた。
藤村は軽く頷くと、外側から回る、いわやる“空手の中段回し蹴り”のフォームをしてみせた。
「確かにな。こんな風に、思い切り捻りと遠心力を入れて蹴った方が、インパクトはいいわなぁ。当たった時にそれが気持ちいいのも解るしな」
「ですです、はい!」
「でも!でもだ…人を倒すのに攻撃が全力である必要はねえのよ」
「は、はあ…」
藤村は指で伊緒の顎、鳩尾、膝の横上など、指し示す。
人体の極めてダメージを受けやすい場所だ、つまり弱点。
打撃のポイントは当てるべき人体の弱点に的確に当てる。加えて言えば、相手の裏をかいて見えない角度から弱点になる場所に当てる。
そうすれば全力の打撃でなくても、相手を倒すことは十分に出来るというのだ。
そして“最短距離を最速で打つ”、これが打撃の基本だと、藤村は繰り返し口にした。
中段回し蹴りの場合、外側から入る蹴りよりも真っ直ぐ蹴った方が、当然相手まで届く距離が短い。その分隙が出来にくく、角度的にもキャッチもされにくいと言うのだ。
「この蹴り方は、ムエタイのミドルキックだ。一見空手の美しい回し蹴りに比べると、素人目には微妙に見えるかもしれねえけど、しかし最短距離で放つことで蹴りはより速くヒットし、無駄な動きがない。つまり、次の攻撃に転じやすいわけさ」
「ムエタイの蹴り、ですか」
「そ。まずは一発…一発でいいから、この蹴り方で中段をガード越しでいいから当てるんだ」
藤村は、もう一度、同じ軌道で蹴りを放った。
スピードは乗せないが、今度は体幹の軸をしっかりとさせ、ブレのない綺麗な蹴りを見せた。
それだけで、伊緒はさっきより速く感じる。
――え!何か、スローでもスピード変わった気がした…
伊緒は少し目を大きくし、藤村の蹴りに驚いた。
「さっきのミットの蹴り見ても感じたけど、この最短距離を青内ちゃんのスピードで蹴れば、バチーンっ!て行くと思うよ。それで相手は躊躇う間が出来るはずだ…。“こいつミドルキックはやっ!”って…。すると次…」
そう言うと、藤村はステップをリズムよく踏み始めた。
そして右の膝を上げたかと思えば、左の膝を二度上げたりと、蹴りと思わせる動作を幾度か見せる。
「…一発の中段蹴りで意識がそこに行くと、脚でリズムを取るだけで、次の蹴りが相手は気になんのよ」
そこから藤村が見せるのは、突き刺すような膝蹴り、そして前蹴り。それらをリズムよくポンポンと繰り出す。
「相手が強引に間合いに入ってくるなら、カウンターの膝蹴り。自分が距離を取りたいならストッピングや前蹴りを出す。相手が警戒して来ないなら、もう一発ミドルキックを出すか、青内ちゃんのマッハ拳を見せてやりゃあいい」
藤村は、今度はパンチを繰り出した。
「わっ…わわ」
どれもスピードを乗せずに繰り出してるのに、伊緒はすでに藤村の出す打撃への対応が遅れてしまっていた。
「何が飛んで来るか迷うでしょ?蹴りに意識が行っているところでえ…はい左ジャブ…。一発じゃなくて、パパンと二連打」
「お、お!」
「ジャブは当たればベストだけど、当てなくていい。“当てる気”で出した攻撃は、当たらなくても次の攻撃に繋ぐフェイントになるしな」
――あ…
当てる気で出すフェイント。
藤村から何気なく出たその言葉に、伊緒ははっとした。
「そう、こういうのが“当てる気で出すフェイント”の基本だ。それ、知りたかったんでしょ?」
「そ、そ、そうです」
「最初の中段蹴りで、相手が脚に意識が行っている間に最速のジャブを見せる…」
「おっす」
「当たらなくても、相手は急なパンチに意識が一瞬翻弄される。例えば今度はここで左脚の前蹴りも行ける。嬉しいことに、左ジャブと左の前蹴りは相性がよくてね、どっちも空ぶっても体勢が崩れない!ほれ、はい、はい、上か下かどっちの攻撃で行くかなあ」
ニヤつきながら藤村は、伊緒を揺さぶる。
「お、お、お…」
「…ってこんな感じに、自分のペースを掴むと、実際に技を繰り出さなくても、本気で打つ“気持ち”を放つだけで、相手には見えない攻撃が飛んでくる感覚に襲われる…」
「おーー!」
「ってところまでは、まだまだ青内ちゃんにゃあ無理だけど…、それでも相手も迂闊に入れなくなる可能性は高い。入れなくなった相手ってのは攻撃をもらいやすいからね、倒すチャンスよ」
「おっす、何か難しいけど、少し解った気がします!」
一連の動きを、説明のためにスローでやってさえ、翻弄された伊緒は、本気で藤村と闘ったら一体どうなるのだろうかとワクワクした。
そのキラキラした目を見た藤村は、心底教えることが楽しく感じた。
「さ、じゃあ、まずは慣れていないであろう、ムエタイ式の中段蹴りから、やってくぞ」
最初の感動のなかった中段回し蹴りから、指導を受け一変した伊緒。
一つ一つは普通の技。
息を吸うのと同じように出来る。
でも、初段の打ち方一つで組み上がる戦い方は、これまで力で相手を叩き潰すことだけを考えていた伊緒にはとても新鮮だった。
そして、藤村の限られた指導時間は、瞬く間に過ぎていく…。
教えられたことがすぐに出来るわけではないが、理屈を知ったことで、色々とコツを掴んだ伊緒は、少しだけ強くなれる道が見え、満足げな笑顔を見せた。
「今日はありがとうございました!」
そんな伊緒が、道場を後にしたすぐのこと…。一人の女性が入れ違うように入ってきた。
茶髪のベリーショートヘアで、伊緒に似た体格の女性だ。
「あっれ、支部長、満面の笑みー、きっしょ」
その女性は、中に入り藤村の顔を見た途端に、半目でそんなことを言った。
指導しがいのあった伊緒が、来春のオープントーメンで活躍出来るか、楽しみで微笑んでいたのだが、何とも酷い言いぶりだ。
「はあ?来て早々にお前、師匠に向かって何つー口の聞き方だ」
「だって、マジ気持ち悪いんだもん。私の前でそんな笑顔見せたことねえし」
悪びれもしないその女性に、藤村はためをついた。
「あのな…お前、次の大会は優勝できないかもよ」
「は?」
女性は、この吉祥寺支部所属の“小林 由美”。
女子軽量級の前年の王者であり、プロのリングにも上がっている実力者だった。
それから三時間ほどが経ち、時間は二十二時半を回っていた。
道場生も皆帰り、掃除を終えた藤村は閉めて、帰り支度をしようとしていた。
そんな時、ガラッと出入り口の引き戸の開く音がした。
誰か忘れ物でもしたのかと顔を出すと、そこにいたのは見知らぬ若い男性だった。
「あ、夜分に失礼します」
男は藤村の姿を見ると、申し訳なさそうに挨拶をした。
「すみません、もう閉めるところなんですが…」
訝しげな顔の藤村を見て、男は慌てて
名刺入れから名刺を一枚取り出し、差し出した。
「…ですよね。いや、指導中に邪魔しちゃ悪いと思って、終わるの待っていたんです。すぐ帰ります。私、六堂 伊乃と申します」
名刺を受け取った藤村は、驚いた。
伊緒の指導者だ。
出稽古の申し込みの時の電話の相手だと知り、藤村は急に笑顔をつくりお辞儀をした。
「え?あーー、青内ちゃんの!?どうもどうも」
「いえ、電話ではお話しましたが…教え子を出稽古させるのに挨拶が遅れてすみません。これ“ご挨拶”です」
六堂は紙袋を、藤村に手渡した。
「お、お、これはどうも、ご丁寧に…。気を遣わせて、返って申し訳ない」
「いいえ。言い訳じゃあないですが、本業が忙しくて、顔を出せませんでした」
“本業”と聞き、藤村はもう一度、六堂の名刺に目をやった。
「私立探偵…なんですね」
「はい。そうなんですが…ちょっと成り行きで、彼女の指導をすることになりまして」
そう言う六堂を見て、藤村はニンマリを笑みを浮かべた。
「探偵さんって、確かライセンス取るのに、実戦における対人制圧とか、そういうの実技試験にありましたよね。結構難しいって聞きますが…」
六堂は、そんな藤村の笑みを見て、眉根を寄せた。
「ええ、まあ。詳しいですね」
「青内ちゃんをあそこまで強くしたくらいだから、あなたも結構なやり手なんでしょうねえ」
そう尋ねる藤村は、まるで少年のような笑顔を浮かべていた。
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