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第六十二話 六堂と藤村の組手
バチーンッ！
藤村の右下段蹴りが、もう一発、六堂の左膝上を打ち抜いた。
リング周囲に集まっている練習生たちが、騒つく。
組手というより、立ち会いさながらの激しい音に驚いたのだ。
又、藤村の蹴りの勢いは、今の現役の選手のそれと変わらない程だ。とても引退して年月が経過しているとは思えないことにも驚かされたのだ。
藤村が放った、左ジャブから下段蹴りというコンビネーションを二回。
たった二回だが、もうこれで、六堂が、“藤村への射程”に入るのは難しくなった。
迂闊に飛び込めば、音速のようなジャブが飛んでくる。
ジャブを防いでも避けても、瞬間生まれる隙を突くように、鋭い下段蹴り。
このままでいても、上に下に翻弄されるばかりだ。
まだダメージは少ないが、出だしから六堂の不利な状況は、格闘技に一定精通していれば解る、そんな状況だ。
リングとルールに縛られては、六堂も格闘技術のみを駆使するしかなく、どうするか頭を回転させていた。
伊緒はぎゅっと手を握り、不安な顔でその様子を見ていた。
「…ったく」
六堂はぼそっとそう漏らすと、軽くため息をついた。
そして“つっかえ棒”のように伸ばしていた左腕の力を抜き、開手のまま前傾姿勢に構えを変えた。
守り主体をやめたということだ。
六堂の変えた構えを見て、眼光はそのままに口角を上げる藤村。
ダンッ！
リングのマットから凄い音がする。
六堂が強烈な踏み込みを見せた音だ。体勢を更に低くし、藤村に向けてタックルに行ったのだ。
藤村の足を狙った低空タックル。
パンチを当てにくい頭の低い姿勢且つ、下段蹴りを打たれていた脚は後ろに隠すような格好で、体全体で突っ込んでくるタックルは、立技専門には脅威だ。
しかし藤村は主体こそムエタイスタイルだが、“総合武道”である無門会空手の空手家。“タックル対策”など息を吸うほどの感覚で出来る。
しかも、六堂が姿勢を低くした瞬間に、タックルは想定していた。
「見え見えだ！そう来ると思ってたぜ！」
藤村は、勢いよく自分の足目掛けて突っ込んでくる六堂に対して、カウンターの膝蹴りを合わせようとした。
現役時代も、タックル狙いの相手選手を、この膝蹴りによるカウンターで何人か沈めたことのある藤村には、むしろ慣れた瞬間だ。
しかし、カウンターで狙うべき六堂の顔面は、更に下がった。
「…なにっ！？」
タックルではない。
真っ直ぐ飛んで来るように見せた六堂のフォームは、フェイクだ。
まるでタックルを出すと思わせる、レスリングさながらの構えに変えたことで、藤村は経験値の高さから本能レベルで騙されたのだ。
六堂が本当に放ちたかったのは、“ 胴回し回転蹴り”だった。
前に突っ込んでくるように見せかけたフォームから、マットを蹴った勢いは、六堂の体を宙に浮かせた。
そして前回転を加速させながら一気に藤村に向かって蹴りを上から落とす。
藤村はバックステップをした。回避はその一択だった。
体格で自分より上回る六堂の全体重を乗せた回転蹴りをガードするなどは、ありえない。
それでも完全に反応が遅れながらもギリギリでかわす藤村の動きはさすがと言えた。
藤村は、その瞬間、冷や汗を感じながらも思わず笑った。
“タックル”のフォームから、瞬時に“胴回し回転蹴り”への切り替え。その動きに一つの無駄もなく、凄すぎて笑わずにいられなかった。
しかし、六堂の攻めは回転蹴りの単発で終わったわけではなかった。
胴回し回転蹴りは、そのままマットに倒れ込む大技だ。だが、六堂はそうはならずマットに器用に“着地”したのだ。
回転蹴りも、本気で当てる気はなかった六堂は、しゃがんだような格好になった。そしてその低い体勢から凄い勢いの右アッパーを繰り出す六堂。
かつての名ボクサーが編み出した“カエル飛びアッパー”を彷彿とさせるそれは、藤村の虚をつく。
藤村の背はロープだ。これ以上のバッグステップはない。
だが、しゃがんだ状態からのアッパーは距離がありモーションが大きい。勢いはあるが、藤村は左ステップで、アッパーの軌道から横に避けた。
「…く！」
思わず声を漏らす藤村。
かわすことは出来た。だが六堂のアッパーから生じた風圧を顔に感じ、当たっていたら一発ノックアウトだったことを察したのだ。
しかし、ここで又藤村の口角が上がる。
見たこともないコンビネーションに一瞬、圧倒された藤村だが、右アッパーで大きく腕を振り上げた六堂に、隙が生まれた。その瞬間を逃す彼ではなかった。
横向きの六堂の左側頭部へ向けて、思い切り左ストレートを放つ。
そのストレートが六堂の頭部を捉えた。
同時に、六堂もこの展開は想定していた。
打ち上げた右腕を折りたたみ、肘を鋭利な形にすると、腰を落とし横を向いたまま、藤村に肘打ちを押し当てた。
まるで八極拳の“挑打頂肘”。
互いに同時打ちのような格好によろめいた。
実際には、コンマ何秒か、六堂の放った肘打ちの方が早く藤村の胸部に触れた分、藤村の左手ストレートは六堂の頭部に触れるも体重が乗り切らず手応えは浅かった。
とはいえ頭部が弾かれた六堂は首を仰け反らせる。
藤村も胸に思い切り打ちこまれた肘の勢いに、ロープまで足をもたつかせる。
タイマーがスタート切ってからまだ一分は過ぎていない。
しかしロープにもたれ掛かった藤村は、右手で胸を抑えながら、左手を前に出し、「もう、やめましょう」と言った。
「…助かります」
と、一言返す六堂。
騒めくリングに集まった練習生たち。
伊緒は、二人が攻防をやめたのを見て、深くため息をつくと、力が抜けてヘナヘナと座り込むのだった。
藤村は、リング中央に立ち、腕で十字を切り、「押忍、ありがとうございました」と静かに頭を下げた。
六堂も中央に立ち一礼。
「…熱いね、実に熱くなった」
藤村は、微笑みそう言った。
これが試合、または喧嘩なら真剣で続きをやったであろうし、何よりそうしたい衝動に狩られたと、後頭部に手をやりながら、藤村は口にした。
「…もうスタミナもないし、門下生の前でやられるわけにはいかないし」
本人はそう言うが、だがそこは指導者。無茶はせず、引き際を考えたのだろうことは、六堂は見抜いていた。
「伊乃さん！」
六堂がリングから降りると、伊緒が掛けより険しい顔で迫ってきた。
「お、おう」
「何が“おう”だよ！何がどうなってんの！？」
「…だから、気にするなって。でも、今日からトーナメントまで、週一で、藤村先生の指導を受けられることになった」
「え？」
伊緒は目を大きくした。
驚いて藤村の方を向くと、彼は親指を立てて、伊緒にウインクをしたのだった。
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