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第六十三話 予選の朝
2001.3.24 -MONDAY-
朝晩はまだ少し冷えることもあるが、日中は暖かい日も続き、桜も蕾を膨らませつつあった。
そんな年度末。
どこの学校も春休み期間に入り、生徒も教師も新しい生活に向けて準備を進めているであろう何かと忙しい時期。
しかし伊緒は、新生活のことなど一切考えることもなく、今走っていた。
六堂と出会い、一年。
そう、一人、文化部棟近くで、サンドバッグを叩いていたあの日、彼と出会った
危険な世界に足を踏み入れていた自分。愚かで浅はかだった自分。
彼と出会っていなかったら、今頃どうなっていただろうかと、伊緒はこの一年、何度も考えさせられた。
そして彼は、強くなる方向を導いてくれた。
お陰で、その道に進むために、強くなるために、厳しい練習を日々こなすことが出来た。
美雪、島崎という仲間も出来た。
更に鍛錬の過程で、色んな人と立ち会った。舞、明日美、才邪、藤村…。
途中、暴力事件に巻き込まれ寄り道はしたが…、色んなことがあって、最高に楽しい一年だった。
しかし、落ち込むこともあった。
自分のパフォーマンスを最高に導くために、練習不足を感じる瞬間が幾度もあったからだ。
実戦と、試合で勝つことは、似て非なるもの。
打・投・極全ての技を解禁し、実戦をモットーとする無門会と言えど、それでもルールが存在する。
そのルールに自分の持つ技術をアジャストさせることが本当に難しかった。
それでも伊緒は、その状況を何とかしようと“ 足掻く”ことこそが、常に高みに達する道だと信じていた。
辿り着いたと満足したら、そこで終わりだと。
そして“今日”を迎えた。
ここは、かつての東京湾の上にある人工島“新東京”。
その玲下頭地区内にある“ニューポートスポーツ公園”は、整備され緑に囲まれており、伊緒はその公園内にあるジョギングコースを走っていた。
キャップを被り、上下ウインドブレーカー姿の伊緒は、リズムよく呼吸し、足音を立てる。
天気も良く、朝からほどよく温かい春の陽光。髪を靡かせる風も心地よかった。
彼女はそれを感じながら前に一歩一歩、徐々にペースを上げ、心臓の鼓動を高め、体中の筋肉を目覚めさせるように、エンジンを掛けて行った。
今日は、いよいよ伊緒の試合デビュー戦の日なのだ。
ここニューポートスポーツ公園内にある“新東京総合体育館”で、無門会空手 全日本オープントーナメントの、“関東予選”が行われる。
伊緒は、そのために公園内を走りアップをしていたのだ。
何より緊張でじっとしていられないという感じだった。
悔いのないよう今日は全力で闘い抜くと決意を心に抱いてはいるものの、公式な競技の試合に出るのは初めてだ。
初めて半グレを相手に夜の街に足を踏み入れた時とは全く異なる不安が、伊緒のメンタルを覆っていた。
走っても走っても疲れない。
緊張がそうさせるのか、昂ぶりがそうさせるのか、それとも鍛えた体が自分の思ってる以上に体力を向上させたのか。
だがとにかく今日の伊緒のコンディションは最高だった。
「おーい、そろそろエントリー手続きすんぞおっ!」
体育館の前を通り過ぎようとすると、入り口近くにいた六堂が大声で叫び、手を振った。
それに気づいた伊緒は、ゆっくりと走るペースを落とし深呼吸をしながら、その足を止めた。
胸を張って深くゆっくり空気を吸い、体の中の二酸化炭素を全て出し切るようにゆっくり長く吐く。それを何度か繰り返しながら、伊緒は六堂の元へ向かった。
「…気合い入れ過ぎて、バテるなよ」
伊緒の首にタオルを掛けると、六堂は眉根を寄せて笑いそう言った。
「大丈夫、大丈夫。十キロくらい走っても、疲れもしませんって」
軽くストレッチをしながら、自身のスタミナに問題ないことを口にする伊緒。
“ 好きこそ物の上手なれ”とはよく言ったものだが、高校入学から武道を始めた彼女が、二年でここまで強くなれたのは、特に強くなること以外に殆ど何にも興味がなかったからだろうと、六堂はその成長ぶりに本当に感心させられていた。
悪党退治という、命の掛け合いという経験もまた、その土台になっているだろうが、とにかく物事に良くも悪くも真っ直ぐな性格が、伊緒の強さに直結していると言えた。
週一で吉祥寺に藤村の指導を受けるようになり約半年。
そこで体格の見合う、軽量級にして、前年全国王者の“由美”との、無門会空手ルールでの組手の機会ももらい、伊緒の持つ技術は大分ルールに馴染んだといえた。
あとは昨年春から繰り返し行ってきた武術部での徹底した基礎稽古を重ね、一年でやれることはやったと、六堂は伊緒を送り出すことには、特に不安はなく、今日を楽しみにしていた。
体育館に入ると、エントリーの確認と受付が始まっていた。
まだ疎らではあったが、選手やその関係者たちが既に並んでいた。
その中に、知った顔がいた。
吉祥寺支部の藤村と、その道場生たちだ。中には、由美もいた。
藤村は、伊緒と六堂に気づくと、にんまりを笑みを浮かべて、道場生たちと近づいてきた。
「押忍、おはようございます、六堂さん、青内ちゃんも」
挨拶を返す伊緒は、藤村の後ろにいる吉祥寺支部の道場生たちの顔を見て、思わず息を飲んだ。
週に一度、吉祥寺支部には通っていたので、見覚えのある顔もいたが、皆屈強そうな顔つきで、これから真剣勝負に挑もうという空気がビリビリ伝わった。
「調子はどう?」
藤村は、伊緒の肩をポンと叩く。
「バッチリです」
伊緒は顔を引き締めて答えた。
「そっか。でも調子いい時って、スコッと墓穴を掘ることもあるから、気合いを入れて集中しとくんだぜ」
藤村が拳を立ててそうアドバイスをすると、伊緒は力強く頷いた。
吉祥寺支部からは、男子6階級、女子3階級と、全て階級で、選手十二人が今日の予選トーナメントに出場をするとのことだった。
前年、女子軽量級王者の由美は、全日本トーナメントへは推薦出場になるらしく、今日は出場選手のセコンドやサポートといて来ていた。
そんな由美は、苦笑いをしながら、伊緒の耳元で囁いた。
「青内、あんたとは全国でやりあいたいけど…今日の初戦の相手、あいつだぞ」
先に受付でトーナメント表を貰っていた由美は、伊緒の相手を確認していた。そして、由美が親指を立てて自身の後ろを指すその先に、初戦の相手らしい選手がいた。
今、受付の手続きをしているが、伊緒をその姿を見て目を見開いた。
「…おう、大きい」
伊緒の目測で、自分より頭一つは大きく見えた。
「あいつ、一昨年のこの階級の全国ファイナリストだ」
由美はさらに、囁く。
いきなりの難敵に、伊緒は苦笑した。
だが次の瞬間、被っているキャップのツバを持つと、苦労ゆっくり回し、逆被りにした。
すると、何かスイッチでも入ったかのように、伊緒の顔が険しく引き締まった。
その表情を目にすると、由美は少し驚いた後、ふっと微笑んだ。
そして、余計な心配だったことを感じ、伊緒の肩を叩いた。
「…頑張んな。全国で、待ってるから」
由美のその言葉に、何か背中をトンと押されたような気がした伊緒は「おっす!」と大声で返したのだった。
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