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第六十四話 全国王者との再会
伊緒は、ふと思い出す。
初めての“実戦の場”。
そう…。廃ビルに忍び込み、泥酔させられた若いOLを、半グレ共から救い出した、あの晩のこと…。
今にして思えば、多少武術を体得していたとはいえ、とんでもないことをしたと自覚は持つようになってはいた。
しかし、自身の“過去の体験”からも、女性に乱暴を働く悪い輩が許せないという強い正義感があり、“勢い”よくその場に足を踏み入れさせた。
そう、“勢い”…。
あの時も怖くて緊張し、震えていた。
だが、“勢い”で恐怖を吹き飛ばした、そんな感じだった。
今日はそういった“勢い”で、ここ新東京総合体育館という闘場に飛び込んだわけではない。
それ故に、気持ちを引き締めても、今ひとつ集中出来ないでいた。
受付を済ませ、六堂と二人、女子選手の控え準備部屋となっている剣道場に向かうと、その側の廊下では、すでに闘う準備を整えようとしている選手たちが、あちこちでアップを始めていた。
「……ぅわあ」
思わず声を漏らす伊緒が、その雰囲気に感じたことは、一言にヤバい…だった。
凄まじい音を立てて、ミットを打っている選手。
空を引き裂くようなシャドーをしている選手。
皆、強そうだ。
選手たちの動きの、その力強さ、鋭さを目の当たりにした伊緒は圧倒された。
「ん?どうした伊緒?」
強張る伊緒に気づいた六堂が、彼女に声を掛けた。
「あ…いや、雰囲気凄いなって」
引き攣り笑いをする伊緒。
六堂はそんな伊緒を見て首を傾げ、微笑んだ。
「…ま、俺もこういう公式の大会に関係者として入るの初めてだけどさ、得てしてこういう場では、周囲が強そうに見えるもんだろうよ」
「…強そう、に?」
「ああ。そして、逆に言えば皆各々、そう思っていて、その空気に飲まれないように、スイッチ入れてアップしてるんじゃないか?」
六堂はそう言うと、伊緒の両肩に手を乗せて、ぐっぐっとほぐすように押した。
「大丈夫、お前は誰よりも強い!どれだけ強い連中と立ち会ってきた?」
六堂の言葉が耳から入り頭を突き抜けると、伊緒はこの一年で立ち会った猛者たちのことを思い出した。
舞、明日美、才邪。
勿論、いつも組手に付き合ってくれた六堂。そして同階級の由美。
「…そうだね、うん!」
伊緒は、緊張を吹き飛ばすべく思い切り深呼吸をすると、六堂の元を離れ、女子選手のために控え準備部屋となっている剣道場へと入った。
中は、運営側がきちんと出場団体ごとに、壁にその名前を紙で貼っていてくれて、ごちゃごちゃならないよう、スペースを区分してくれていた。
東京総本部、新宿西支部、中目黒支部、綾瀬支部、渋谷支部、吉祥寺支部、早稲田順支部……、壁に貼っている道場の名前は思っていたより多い。
東京だけでも相当な無門会の道場があることを初めて知る伊緒。
だが今日は“関東予選”。
他にも神奈川や埼玉などにある道場から、多くの選手が出るのだと、驚かされた。
伊緒がエントリーしている団体名“青南学園武術部”もきちんと壁に貼ってあった。
「あ…あそこか」
エントリー人数によって、そのスペースが適当に仕切られてるようだが、武術部は伊緒一人。端っこの方に小さめに用意されていた。
そこにスポーツバッグを起きキャップを取った。
そして周囲を見渡すと、裸になり着替えてる者、テーピングをする者、バンテージを巻いている者、ストレッチを行っている者……。
廊下と違って静かだが、それでも緊張と興奮に満ちた空気で満たされていた。
選手たちの心は既に試合場での戦いに向かっているのだろう。
「…おや、誰かと思えば、青南の伊緒さん」
道着に着替えようと、ウインドブレーカーの上を脱いだ途端、背後から声を掛けて来た者がいた。
伊緒が振り返ると、そこにいたのは見覚えのあるスレンダー美人、“支倉 舞”。
前に会った時より、髪が少し伸びているようで、小さく襟足を結んでいたが、クールな美人顔は、忘れもしない。コテンパンにやられた立ち会いのことも思い出す。
「ま、舞さん!お、おはようございます!」
舞は伊緒の隣に、スポーツバッグを置くと、伊緒の身体を見て、微笑んだ。
「おはよ。以前と体つき、変わったね。しっかり稽古をしてきたの、解るよ」
間近に顔を寄せてそう言われると、伊緒は顔を少し赤くした。
「お、お、おす」
舞の控えスペースは、伊緒の隣で、同じ広さだった。壁には、“近藤MMAアカデミー”という団体名が書かれた紙が貼ってあった。
舞は特定の支部に籍を置いておらず、無門会空手連盟に登録しているだけなのだという。
聞けば、初めて全国優勝して以降、空手について続けてはいるものの、半分は趣味みたいなもので、どこかに所属すると義理付き合いもあるので、一定距離を置いているらしい。
各道場への出稽古や、通っている格闘技ジムで、鍛錬をしてるそうだった。
それでも過去、三回も全国優勝を果たしていることから、彼女の実力が如何に高みに達しているか、一度立ち会ったことのある伊緒はよく理解していた。
二人は道着に着替え終えると、向かい合って座り、黙々とストレッチを始めた。
脚を伸ばし、首を伸ばし、柔らかな動きで腕を回し肩の筋肉をほぐしていく。
十五分ほど掛けてじっくりと行い、二人は立ち上がり、深呼吸をすると、一緒に剣道場から廊下に出た。
伊緒は道着になって尚、キャップを一度被り、そしてわざわざそれを反対に回して被り直す。
これは、夜の街で悪者退治を始めた時からの、戦闘をする前の彼女の儀式だ。
廊下では、舞のサポート役に来たという“近藤 有介”という、四十代くらいの男が彼女が出てくるのを待っていた。
「あ、この人、今日の私のセコンド」
舞は、近藤を伊緒に紹介する。
舞の通っている“近藤MMAアカデミー”の、オーナー兼トレーナーで、現役時代は“シューティング・ファイト”というプロ総合格闘技のライトヘビー級のチャンピオンだったらしい。
「どう?一緒にアップやらない?ミットとかさ、軽い組手とか。この人、ミット持ち上手いよぉ」
舞にウォームアップを誘われると、伊緒は少し間を空けて迷ったが、首を横に振る。
「あ、いえ…私、伊乃さんと来てるので」
伊緒がそう言いかけると、その背後から六堂が声を挟んだ。
「いいよいいよっ!舞さんと一緒にアップしろって」
突然の声に、伊緒は驚いて後ろを振り返った。
六堂は、舞とその隣に立つ近藤に会釈した。
「伊乃さん!いいの?」
伊緒が確認をすると、六堂は微笑みながら頷いた。
「ああ。一人で心細かったんじゃないの?チャンピオンとそのトレーナーが一緒だと心強いだろ」
六堂にそう言われると、伊緒は明るい表情を見せた。
舞は、伊緒と六堂が友人であることを近藤に説明すると、近藤は軽く頷きムエタイミットを用意した。
「OKOK、君が軽量級“期待の新人ちゃん”だねぃ」
近藤は、舞から“青内 伊緒”という存在のことをよく聞いていたようで、その本人を目の当たりにして少し嬉しそうな顔をした。
「いいねえ、そのキャップ。なんつーか、無門会の道場生たちはやらないアウェイな感じ?外部からの挑戦者的キャラ感出てるじゃん」
近藤は、伊緒の頭を指さした。
「あ…えと、これは…闘う前に自分を鼓舞するっていうか…」
少し恥ずかしそうにする伊緒を見て、近藤は大笑いした。
「お、照れてる?可愛い!いいね、最高なキャラだな君は!俺そういうの好きよ。よぉし…今日は君にも注目してっからね!」
そう言い伊緒の背中を叩く近藤を見て、舞は思わず微笑んだ。
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