第一章

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第一章

平成十七年四月三十日:(一)  昨日の朝早く、母が胸の痛みを訴えました。台所でうずくまって動けない様子に驚き、同居している母の妹のまなみおばさんが救急車を呼びました。病院に来て処置をしてもらうと痛みは治まったようだけど、 「念のため入院して、詳しく検査しましょう」 そう医師に言われ、そのまま入院してしまいました。まなみおばさんは入院すると言ってもどうしていいか分からず、おろおろするばかり。でも、母たちの母親代わりとも言える近所の阿部のおばさんが来てくれて、何もかも適切に手続きを済ませてくれました。  そう、私の母姉妹にはもう親がいません。お母さん(私にとって祖母)は、母が中学校二年生、まなみおばさんが小学校一年生のときに病気で亡くなっています。お父さんも九年前に肺癌で亡くなっています。私が九歳の時でした。中学校のときに母親を亡くし、父親は出張ばかりで帰って来ないことが多い。そこで親しかった近所の阿部さんが、母たち姉妹の面倒をずっと見てくれたそうです。なので母たちは、阿部のおばさんを「(阿部の)お母さん」と呼んでいます。  母は六階の個室に入りました。昨日から入院していますが、今日が土曜日ということもあって、本格的な検査再開は月曜日。今は昨日の治療の経過観察中です。痛みが治まった母はかなり退屈な様子。 「お母さん、テレビ面白いのやってへんから、なんかDVD持って来て~」 夕暮れが近づいて帰り支度を始めた阿部のおばさんに、母が甘えたような声で言いました。 「そんなん、ここでは見れへんでしょ」 おばさんは手を止めずに答えます。 「うん、そやからプレイヤーごとお願い!」 母は両手を胸の前で合わせて拝むようなポーズをしています。帰り支度を終えたおばさんは母に一言。 「二、三日のことなんでしょ? テレビ我慢して読書でもしなさい」 そう言われてこんどは私の方に視線で振ってくる母。 「テレビ有料やし、私も読書の方がええと思うよ」 と、答えるのみ。 「薄情もの、親が退屈で死にかけてるってのに」 「退屈で死んだ人はおらへんわ。どんだけ読書嫌いなん」 言い合ってる私たち親子をよそに、 「それじゃ、今日は帰るね」 部屋を出て行こうとしながら、おばさんが言います。 「あっ、今夜、マーが帰ってくるからあの子になんか頼んだら?」 「マー坊来るの? 今夜?」 母はさっきまでより一段と元気な声で聞き返します。マーとかマー坊とか言われているのは、阿部さんの所の長男の正善さんのことです。母とは同い年の、いわゆる幼馴染ってやつです。 「そ、あんたのこと言うたら、こっちに先に寄るって言ってたから、リクエストがあったら自分でしなさい」 おばさんはそう言うと、「また明日ね」と言って帰っていきました。その閉まった扉に、 「何時ごろ来るって言うてた?」 母が問いかけますが、返事は返らず。 「行っちゃったよ」 そう言う私にかまわず、母は携帯電話を手に取って、 「ここで携帯使うたらまずいよね」 そう言いながらベッドから降ります。 「外行って電話してくる」 いそいそと病室を出て行ってしまいました。 「パジャマのままで?」 私は呆れながら母の後ろ姿を見送りました。  私自身は救急車を呼んでの母の入院という大事件に、やっと順応できた頃でした。窓辺によって外を見ると鮮やかな夕焼け空。今週は何日か雨が降ったので、空は澄み切っていてとてもきれいでした。下にはJRと私鉄の両方が乗り入れる駅が見えます。急行や快速電車の停まる駅なので、家路につく人なのか、週末の夜、遊びに行く人なのか、ホームには本当にたくさんの人が見えました。ホームだけではなく、駅前の歩道にもたくさんの人がいます。 「本当ならあの中にいるはずなんだよなぁ」 呟いていました。私は高校三年生。受験生と呼ばれる学年。その上、身の程知らずと母に言われるくらい、レベルの高い大学を目指しています。当然塾にも通い始めていました。土曜日は進学塾に行く前に英語教室に通っているので、今はちょうどその移動途中に間食中の時間でした。  人波をボーっと眺めていたので、まなみおばさんが病室に入ってきたのに気付きません。 「あれ? 綾だけ? 姉さんは?」 私はびっくりして振り向きました。 「マー兄(正善さんのことを私はこう呼んでいます)に電話しに行ったよ」 「あっそ、さっきまで私話してたのに。七時くらいに来るって言うてたよ。てか、あんた塾は?」 そう言いながら、レンタルビデオ屋さんの袋をベッドの上に置きました。 「今日も休む」と、私。 「だったら制服着替えてから来るべきやない?」 学校帰りにそのまま来た私の姿を見てそう言います。そして私がそれに答える前に、 「私、用事あるから行っちゃうけど、それ姉さんに差し入れ」 そう言って出て行こうとしました。 「まな姉!(おばさんとは呼ばせてくれない!)、DVD持って来ても観れへんよ!」 私は慌てて呼びかけました。まな姉は戸口から戻って来てテレビの方を見ます。 「うそー、この前友達のお見舞いに行ったときはDVD観れるやつやったから⋯。まいっか、一週間レンタルやから家で観れば」 そう言ってにこっと笑うと、「じゃね」って、手を振って出て行ってしまいました。 「はぁ」 私はため息をついて、また窓の外を眺めます。六階と言ってもそんなに見晴らしが良いわけではない景色。街中なので周りもビルだらけです。そんなビルの狭間にこんもりした緑の丘が見えます。丘と言うより、森の木々の上部だけが見えているような感じ。多分、この辺りに多い古墳の一つでしょう。あまり興味がないので何古墳なのかは分かりません。でも、分からないなりになんとなく古墳の名前を思い出そう、なんてことをしていると母が帰ってきました。 「ず~と電話中。忙しいんかなぁ」 私と目が合うとそう言います。手にはジュースやお茶、それにお菓子まで入ったビニール袋を下げてます。それを見て私は言います。 「なんか、入院してから結構お菓子食べてるけど、お医者さんはいいって言ってるん?」 「え? ⋯別にダメって言われてへんよ」 少し間があってからそう答える母。 「いいとも言われてないんやないの?」 「⋯うん」 「もう、ちょっとは自重しなよ」 「やっぱダメかなぁ?」 「お腹痛くなったんでしょ? しばらく控えるのが普通ちゃう?」 私にそう言われると、母は唇を尖らせて隅の冷蔵庫の方へ行きました。そこでビニール袋の中からペットボトルを出して、冷蔵庫の上に並べていきます。そして飲み物を取り出したビニール袋を私の方へ差し出して来て、 「あげる」 と、一言だけ。私が受け取らずにいると、腕をゆすって受け取るように催促してきます。なんだか機嫌が悪くなった? 「はいはい、ありがと」 子供じゃないんだから、と思いながら受け取ります。母はそのあと冷蔵庫を開けてペットボトルを入れていましたが、四本買ってきた内の二本は上に置いたまま扉を閉めます。私がなんで入れないの?って顔をしていたのか、振り向いた母は私を見てこう言います。 「六本しか入らへんの」 確かに、小さな棚の上に置かれた小さな冷蔵庫。ここで見るまで、こんな小さな冷蔵庫があることを知りませんでした。ペットボトル六本で一杯なのは頷けます。だったらそんなに買って来なくてもいいのに。そんな風に思って黙っていた私に構わず、母がこう言い出します。なぜだか少し機嫌が直ったような口調で。 「私食べないと痩せちゃうんだけどな」 「⋯⋯」 「体が大きいから人よりカロリー消費が多いんかなぁ?」 「でも最近、少しお腹出てきたんやない?」 私はそう言って、母のお腹の辺りをつついてやります。 「それは言ったらだめ。でもまだまだ大丈夫でしょ?」 母は変なポーズをとって見せます。確かに同級生のお母さんたちと比べると、背が高いと言うのもあるけれどスタイルがいい、と思う。それに母は若い。ほかのお母さんたちはみんな軽く四十歳を超えていて、五十くらいの人もいる。母はまだ四十歳手前。でもその若さを差し引いても、自慢の美人ママです。本人にはこんなこと、決して言わないけど。 「はいはい、そういう恥ずかしいことは誰もいない時にやって」 私はまだいろいろなポーズをとろうとしている母をわざと見ないようにしながら、 「さっきまな姉が来て、マー兄、七時頃って言ってたよ」 そう言ってやりました。すると、 「まなみと話してて電話中やったのか」 と、また不機嫌そう。病室においてある二人掛けのソファーに座り、 「で、まなみは?」 と、聞いてきました。 「用事あるからって、すぐに行っちゃった」 「ふ~ん⋯。土曜の夜の用事は、仕事やないよねぇ。絶対に」 少し間があってから母はそう言って、意味深な顔で私に同意を求めます。 「そういう話は私に振られてもわからへんってば」 「なんで? 友達と遊ぶとか、彼氏とデートとか、色々あるでしょ」 「夜、遊びに行くとかしたことないやん」 「デートは?」 「⋯⋯」 私は返事をしませんでした。代わりに目を細めて睨みました。母は窓の外に寂しげな視線を向けながら言います。 「綾も今年で十八でしょ? なんで彼氏の一人や二人おらへんかなぁ?」 私は芝居くさいんやから! と、思いながら言います。 「普通、年頃の娘を持つ親は逆のこと心配するんちゃうの?」 「年頃って、自分で言うか?」と言いながら、母は私の方に身を乗り出して、 「それよそれ、土曜の夜に娘がいない。友達と遊びに行くって言うてたけど、友達って? ひょっとして彼氏と? まさか朝帰り? 本当に朝帰ってきたらどんな顔して出迎えたらええの? って、一回くらい心配してみたいんよ」 と、あんたはアメリカ人かと突っ込みたくなるぐらいの、身振り手振りを交えながら言いました。そして大きくため息をつきます。 「私だってわかんないよ? 塾だって言うてるのはお母さんにだけで、本当はどこに行ってんのか」 私は精一杯強がってまた言い返します。 「ふ~ん、あっそう、男友達もおらへんのに、デートの相手はおるん? すごいねぇ綾ちゃん」 母はニコニコ顔でそう言いました。私もこうなったら負けずに、 「男友達がおったって、そういうことは親には言わへんの!」 と、またまた言い返します。母相手に無駄なことは承知で⋯。 「いっつも学校や塾のこと、聞かなくても話してくれんのに? あ、中学のとき、のぶ君やったっけ? 仲のいい男の子が出来たとき、毎日その子の話題やったよねぇ。あんた楽しそうに話しとったのに、高校生になったらそういうことは話さへんの?」 母のニコニコ顔はさっきよりも磨きがかかります。もう何も言い返しません。実際何もない私は言い返すネタもない。ここは退散しよう。私は鞄を手に取りながら、 「もういいわ、明日模試だから帰る」 と言いました。帰る(退散する)口実で模試と言いました。でもそれは、実際に切実な理由です。  学校での成績はかなり良い方です。でも二年生の終りに受けた最初の模試で、第一志望の大学の学部はD判定。それから気持ちを入れ替えました。高校生モードの気持ちは捨てて、受験生モードの生活へと。すぐに塾へも行かせてもらいました。読書好きの私がこの一か月で読んだ本は二冊だけ。そのくらい勉強に費やしてきました。明日がそれから初めての模試。前回よりも良い手応えと結果が欲しい。そういう焦りがあります。でも、ここに留まりたい気持ちもあります。昨日の朝の苦しんでいる母の顔が目に焼きついたまま消えません。母のことが心配です。何か安心できる結果が出るまで離れたくない、と言う気持ちでした。そしてまたまたそれとは裏腹な思いも。そういう怖い姿を見てしまったからこそ、ここにいたら何か嫌な結果を聞かされるのではないかという不安も。なので、ここにいるのは正直言って不快でもあります。昨日は学校も塾も休んで、ずっとここにいました。今日は学校には行きましたが、塾は休むことにして昼からここにいます。それだけこの病室と言うところにいたからでしょうか、落ち着かない気分が強くなってきました。やはりこのまま帰ろう。帰って勉強しよう。手に付くかどうかは分からないけれど、とりあえず机に向おう。  そんなことを思って動きの止まった私の方に、母はソファーから歩いて来ます。 「あ~やちゃん。私は大丈夫だから、余計なこと考えないで模試がんばって」 私の目を覗き込んでニッコリ笑いました。私はこういう母に弱い。いつも私の不安な気持なんかを見抜いて、やさしく声を掛けてくれる。 「とか何とか言って、どうせ受かりっこないとか思うてるくせに」 目をそらしてそう言い放つ私。 「うんうん、第一志望はぜ~たいに無理やけど、模試はがんばってもらって、絶対に受かりそうな大学探さないかんもん」 母は憎まれ口で私の照れを隠してくれる。本当は自分の照れかもしれないけれど。私は病室の戸口へ向かい扉を開けながら言います。 「そうや、ベッドの上にまな姉が持ってきた差し入れおいてあるから。それじゃ、おやすみなさい」 部屋を出て、廊下をエレベーターのほうへ向かいます。閉まっていく扉の向こうから、 「プレイヤーも持ってこ~い!」 そう言う母の声を聞いて、微笑みながら。
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