第一章

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平成十七年四月三十日:(二)  正善さんが名古屋から車を走らせ、母の病室に着いたのは午後七時頃らしいです。六時に担当の看護師さんが母の病室を訪れ、夕食の用意が出来たことを告げました。昨日その看護師さんから、 「山中さん、うちの病棟では動ける患者さんには出来るだけ、ディルームで他の患者さんと一緒に食事してもらうようにお願いしているんだけど、よろしいですか?」 と、お願いされたものだから、「いいですよ」と快諾。母はディルームへ出向き、食事をして病室に戻ったのは六時半過ぎ。当然、暇を持て余している上に、おなかまで膨れては睡魔の餌食です。  正善さんは病室の扉を軽くノックして、 「かおり、入るよ?」と、母の返事を待ったのですが、返事はなし。扉をそっと開けて病室に入って行きますが、ベッドは空。そしてベッドの奥のソファーを見て、呆れた口調で一言。 「寝るならベッドで寝ろ」 母は小さなソファーに丸くなって寝ていました。正善さんは病室の中を見回し、隅の小さな冷蔵庫を見つけると、お見舞いに持ってきたお茶にジュース、それと白い紙箱を入れようと開けました。 「⋯入らんなぁ」 ペットボトルで一杯になっているのを見て、そう呟きます。正善さんは冷蔵庫の扉を閉めかけながら、手に持った紙箱を見ました。一瞬考えてからもう一度冷蔵庫を開けて、ペットボトルを四本取り出します。代わりに紙箱の中身を入れました。  気候のいい時期なので、病室には空調が入っていませんでした。でも夜は少し冷えていたので正善さんは、背広の上着を母に掛けてくれます。することのない正善さんは窓辺に立って外の景色を見るでもなく眺めます。  上着を掛けてもらったのが刺激になったのか、しばらくして母は目を覚ましました。目を開けたとき、窓辺の正善さんが見えました。母は身動きもせず、声も掛けず、ただ正善さんを見つめていました。人知れず思うところのあった母の目から、涙がこぼれてきました。母は正善さんに分からないように涙を拭こうと下を向きましたが、その動きで正善さんは母が目を覚ましたことに気付きます。 「お・は・よ・う」 母に声を掛けます。母は見えないように涙をぬぐって、顔を上げました。 「わざわざ来てくれたん? ありがとね」 正善さんは母の顔を見て、目を見て、気付きました。でも、母が明るく笑いかけているので無視します。 「わざわざお前のために帰ってきたんちゃうわ。ゴールデンウイークやろ」 正善さんは、ソファーに座りなおした母の前、ベッドに腰掛けながら言いました。 「なーんや、私が倒れたって聞いて、心配で心配で、仕事ほったらかして飛んできたのか思うた。そしたら少しは感謝してやろ思うたのに」 母はソファーの横の小さなテーブルに手を伸ばして、飲みかけのお茶のペットボトルをとると一口飲みました。 「仕事ほったらかしてたら昨日来とるはずやから、そっちは置いといて。見舞いに来たことに感謝は有ってもええと思うけどな」 正善さんはテレビのリモコンを手にとって、電源を入れながら、 「あ、一応かおりの為にって、わざわざ買うてきたやつがそこに入れてある」 と言って、テレビのリモコンを冷蔵庫のほうに向けます。 「なになに? 何持って来てくれたん? ひょっとして、DVDプレイヤー?」 母はニコニコしながら正善さんの顔を覗き込んで言いました。 「あほ、そんなもん冷蔵庫に入れるか!」 正善さんは母のおでこをリモコンで押して顔を離させました。 「と言うか、なんでDVDやねん」 母は、顔を離されたので座りなおしました。 「だって、テレビ面白いのやってへんから退屈なんやもん。だったら何持って来てくれたん?」 「かおりが好きな例のババロア。春限定のイチゴのやつがまだあったから、それ買うてきた」 「あ、あのお店のやつ? 食べたい」 母は身を乗り出して言いました。 「ええよ、食べて。まなみと綾ちゃんの分もあるから、一人で全部食べんなよ」 正善さんはテレビのニュース画面を見ながら言います。 「えー、取ってきてよ」 「自分でいけ、すぐそこやろ」 「もう、私、病人やのに」 と言いながら、母はいそいそと冷蔵庫まで行って開けました。 「きれーい。おいしそう!」 と、さも嬉し気な声を出します。濃いピンクのババロアが白とピンクのホイップとイチゴジャムでデコレートされ、スライスされたイチゴが扇型に並べて載せてあります。 「あ、でも四つあるよ。一つマー坊食べなよ」 「まだ晩飯も食べてへんのに? かおりが二つ食べると思うて、一つ多くしたんや」 「そっか、ありがと。じゃ、私だけいただくね」 母はババロアの入ったガラスのカップを持ってソファーに戻って来ました。そして一口食べます。 「おいしい。⋯なんか、とっても幸せ!」 子供のような笑顔でいいました。 「おまえのそういう顔って、子供の頃からほんっまに変わらんなぁ」 正善さんは母の顔を見て言いました。 「あ~! ババロアの中にもイチゴが入ってる!」 「黙って食べろ」  二人はその後、テレビを見ながら何でもない会話を重ねていました。そのうちにふっと、部屋の中が暗くなったように感じます。扉の磨りガラス窓の向こうの廊下が暗くなっています。 「廊下の電気消えた? もう消灯なん?」 正善さんが言いました。母は床頭台の上に置いた携帯電話を見て言います。 「八時で面会時間終りやからかな?」 その通りでした、面会時間の終る八時になると、廊下の蛍光灯が半分くらい消えるのでした。 「そっか、八時までか」 正善さんは立ち上がりました。 「それじゃあ、そろそろ帰るわ」 そう言う正善さんに母は、 「家族はいつまでいてもええんよ。付き添いってことで」 と、肩掛け代わりにしていた正善さんの上着を手にとって整えながら言いました。 「いやいや、面会時間関係なしにそろそろ帰ろか思てたんや。腹ペコやし、風呂も入りたいし」 母の手から上着を受け取りながら、正善さんは言いました。 「ま、しょうがないか。よし、今日のところは帰宅を許してしんぜよう」 母も立ち上がって言いました。 「それはそれは、お気遣い、まことにかたじけない。ではそれがし、お言葉に甘えて、家に帰ってゆっくりさせていただくでござる」 正善さんは芝居がかって言います。そんな正善さんに母は冷めた顔で言いました。 「大丈夫? 代わりに入院してく?」 でもすぐに表情を変えて、 「あ、そうそう、ババロア。綾が明日模試やから家で勉強してる思うの。だから、まなみの分と一緒に届けたって」 と言いながら、冷蔵庫の中からガラスのカップを取り出すと、紙箱に入れていきました。でも一つは残します。 「この一個は、明日の朝ごはんの後で私が食べるデザート用」 と、ニコッとしてから冷蔵庫を閉めます。 「はいはい」と、正善さんは母の手から箱を受け取ります。 「何を慌ててんの?」 母が聞きました。 「面会時間過ぎてるのに、看護婦さんに怒られたらいややん」 「そんなことで怒られるわけないやん」 母は笑いながら続けて言います。 「それに、看護婦さんやなくて、看護師さんって言わな。そっちのほうが怒られるかもよ」 「そやなぁ、それじゃ、明日また顔出すから」 正善さんは扉を開けて言いました。 「了解! 今日は遠路はるばるありがとうございました」 母はペコリと頭を下げました。 「どういたしまして。じゃな、おやすみ」 正善さんは扉を閉めて出て行きました。母は閉まる扉に向かって、 「おやすみ」と言いながら、胸の高さで手を振っていました。
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