第一章

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平成十七年四月三十日:(三)  私は母の病室を出てからまっすぐ家へと向かいました。こんな時間に病院を出るなら塾に行っとけばよかった。休んだ分、安くなるわけじゃないんだからもったいない。なんてことを思いながらも家に向っていました。家には病室から見えた駅から電車に乗って三駅、そこからは歩いて十五分くらいです。駅を降りると、駅前のロータリーに行きつけの本屋さんがあります。苦手な三角関数だけの問題集ってないかなぁ、と思い本屋さんに寄り道。目当てのものは見つからなかったのですが、ひたすら和文を英訳していくタイプの問題集を一冊。レジに並ぶ前に小説のコーナーを物色、好きな作家の新作が出ているのを見つけて、それも購入。なんだかんだで、約一時間寄り道して家に着きました。  家の玄関前には車がありました。あれ? まな姉、車乗ってかなかったんだ。そう思いながら玄関に手を掛けると鍵がかかっておらず、引戸はするすると開きました。それに、土間にはまな姉の靴もありました。まな姉、家にいるんだ。 「ただいま!」 私は大きめの声で言いました。 「お帰り」と、思ったとおり声が返ってきます。玄関から居間につながる硝子障子を開けると、居間の奥の台所にまな姉がいました。なにやら信じられないことに、料理をしているようです。私が台所に近づくと、 「待った、あんたの言いたいことはよーく分かってるから。それ以上何も言うな」 右手を突き出して、私の動きに待ったを掛けます。 「言いたいことって、私まだ何も言うてへんやん」 「どーせ私がこんなことしてると、雪が降るとかって言いたいくせに」 まな姉はまな板のほうに向き直って言いました。私はなんだかおかしくなってこう言います。 「そんな失礼なこと言わへんよ。ただ、熱でもあるんかなって心配になっただけ」 「やっぱり馬鹿にしてるんやん。私だってねぇ、料理ぐらい出来るんやから」 とんとんと、厚目のお肉を包丁で叩きながら言いました。 「さあ、あんたに見られてても邪魔なだけやから、早く上行って勉強でもしてきなさい。出来たら呼んだげるから」 「は~い。で、何作ってくれてんのか聞いていい?」 「う~んとね、食べれるもの」 「⋯期待してるわ」 私はそれ以上聞かず、二階に上がろうとしましたが、あっと思って質問。 「ねえねえ、今日ってどっか出掛けるんやなかったの?」 「出掛ける? 私が? そんなこと言ったっけ?」 まな姉は背を向けたままそう言います。 「さっき用事あるからって、さっさと帰ったやん」 「だから今、用事をしてるんやない」 「夕飯作るのが用事やったんだ」 「そ、姉さんに今朝頼まれたの。綾が明日模試だから、勉強に集中できるようにしてやってねって。だからあんたは、さっさと勉強しに行きなさい」 そう言いながらも、まな姉は冷蔵庫から何かを出したり、真剣に料理を続けていました。私はなんだかうれしくなり、 「料理長、よろしく」 と言って階段に向かおうとしました。すると、 「それに、マー兄が来るっていうのに、いたらお邪魔でしょ」 そう言うまな姉の声が聞こえます。私が立ち止まって、 「えっ?」って、聞き返すと、 「あ、いいからいいから、あんたは早く上に行きなさい」 声だけ返ってきました。  家に帰って来るまでは色々と考えていて、机に向かっても勉強なんて手につかないと思っていました。でも、いざ数学の問題集に向き合うと、これがなかなか手強くて、完全に没頭してしまいました。なので、 「そろそろご飯にしようか?」 まな姉が声を掛けてくれるまで、時間も気になっていませんでした。 「はーい」と、返事して時計を見ると八時半。 空腹感が急に湧いてきました。 「まな姉! 遅いよ、もうおなかペコペコ」 そう言いながら階段を下りると、カレーのいい匂いがしてきました。ますますおなかが減ってきます。 「カレーなんだ。早く食べたい!」 そう言いながら居間に入っていくと、 「カレーじゃなくて、鯖の塩焼きと、オムレツくらいでいいかな? とかって言ってたけど・・・。母さんが」と、まな姉。 「おばさん? でもカレーのいい匂いしてるやん」 そう私が言うとまな姉は玄関のほうへ行きながら、 「カレーねぇ、多分、上の方の少ししか食べれそうにないんだ」 「なんで?」 「⋯⋯」 「⋯焦がしたの?」 「火は小さくしたつもりだったの。それに、ほんのちょっと仕事しちゃおうと思っただけだし」 「⋯火事にならなくて良かった」 「ほんとに」 「私はお腹減りすぎて倒れそうだけど」 「ごめん。って、あんた塾行ってたらあと一時間は帰って来てないじゃん」 「塾行くときは夕方に何か食べてるもん」 「⋯⋯」 まな姉は黙って私とすれ違って玄関に。私も続いて玄関に向かいます。すると、靴を履いたまな姉が振り返って言います。 「結局ねぇ、ご飯炊くのも忘れてたし⋯。まぁ⋯なんというか、⋯ごめん」 まな姉は頭を下げました。私はなんだか、まな姉って本当にかわいい女性だなぁって、改めて感じました。 「まな姉ってかわいいね」 思わず口に出てしまいました。口に出してしまってからなんだか恥ずかしくなって、慌ててサンダルを下駄箱から出して履きました。 「あんたねぇ、三十女が十七の子に、かわいいって言われても嬉しくないの」 まな姉も照れているようでした。 「て言うか、馬鹿にしてるでしょ」 なんて言いながら外に出るまな姉。私も外に出て玄関を閉めながら、 「三十じゃなくて、三十二でしょ」と言うと、 「一言多い!」頭をたたかれました。  阿部さんの家はうちから二軒挟んだ三軒目。歩き始めたと思ったら着いてしまいます。阿部さんの家は玄関前の小さな庭をつぶして車二台停められるスペースがありますが、今は一台も停まっていません。まな姉はいきなり「こんばんは」と、玄関を開けて入っていきました。私も続いて入りました。阿部さんの家も基本的にうちと同じ間取りです。ですが五年くらい前、マー兄が建設会社に勤めていたときにリフォームしているので、中はまだ新しくきれいです。私は自分の家が嫌いではありませんが、リフォーム後の阿部家のお風呂はうらやましくてしょうがありません。毎日お風呂だけはこっちに入りに来たいくらいです。玄関から居間への扉を開けると、 「いらっしゃい」と、おばさんが台所から言ってくれます。 「もう少しやから座って待ってて」 そう言われて、まな姉は食卓につきます。  食卓にはもう、おいしそうに焼き上がった鯖の塩焼き、それと、マカロニの入ったサラダが隠れるくらい、たくさんプチトマトが盛り付けられたサラダボウルが置いてありました。 「ここに来ないと、焼き魚なんて食べる機会がないから、なんかうれしくなっちゃう」 まな姉が、食卓の椅子に座るなりそう言うと、もうお箸を持って焼き鯖を食べようとしています。私がまな姉のお箸を持った手を叩くしぐさをすると、ふくれっ面で見返してきます。が、左手でプチトマトを一つ摘まんで口に。 「家では魚食べへんの?」 おばさんは、ボールの中の卵を溶きながら言いました。 「姉さんがあんまり魚好きじゃないから。お刺身は食べるんだけどね」と、まな姉。 「でも、私には食べなさいって、魚料理作ってくれるよ」と私。 「そっか、かおりは昔から魚好きじゃなかったかも」 おばさんはそう言います。そして、 「でも、綾ちゃんが小学校の三年生か四年生ぐらいの時、周りの子より背が低いの気にして、魚食べさせないのが原因かなって相談に来たの。私は今から伸びるわよって言ったのよ。だって、かおりが背、高い方なんだから。でもそれから魚料理教えてって来るようになって、だから家でも魚食べてると思ってた。綾ちゃんの分しか作ってなかったんやね。あの子らしい」 少し笑いながら言いました。 「それであんたはそんなに背が伸びたのね」 まな姉は椅子に座ったままかがんで、私を見上げるように言いました。私は何か言い返そうとしましたけど、 「綾ちゃん、悪いけどみんなのご飯よそってくれる? もう出来るから」 イタリヤ風って言うのかな? フライパンサイズの大きな丸いオムレツを焼いているおばさんにそう言われ、何も言えませんでした。  オムレツとお味噌汁が出てきておばさんが椅子に座ると、一斉に食事が始まりました。まな姉も私も、おなかがペコペコだったのです。 「お母さんもまだ食事してなかったなんて」 まな姉はそう言いながら、三人で食べるには大きすぎるオムレツの三分の一を自分の取り皿に取り分けようとして、 「まなみ! 一人でそんなに取ったらみんなの分がなくなるでしょ!」 おばさんに怒られました。 「え? だって、三人だから三分の一食べてもいいかなって⋯」 「あんたねえ、三人分でこんなに大きなの作るわけないでしょ。お父さんと、マーの分残しとかなきゃだめやの」 おばさんはそう言いながら、まな姉が切り分けたところからオムレツを食べました。 「やっぱりね、私も一人でこれは多いなぁって思ってたんよ」 まな姉は言い訳しますが、 「本当は一人でペロッと食べちゃうくせに」と私。すると、 「失礼な口はこれか!」 テーブル越しに私の口を摘まもうとしてきました。私は身を引いてよけましたが、 「あんたはいつまでたっても行儀悪いんだから!」 まな姉がおばさんにその手を叩かれていました。でも、おばさんは叩いてから、 「こうやってると、昔のにぎやかな食事を思い出すね。最近はお父さんと二人で黙々と食べるだけやから」 楽しげに言いました。 「にぎやかと言うか、戦争やったけどね」 まな姉が鯖の身をほぐしながら言います。 「マー兄と、姉さん、おかず全部先に食べちゃうから、よし姉と私は自分の分確保するのに必死やったもん。食事のたんびに疲れてたような気がする」 よし姉って言うのは正善さんの妹の、淑恵さんのことです。まな姉より三歳年上。もう結婚していて、今は神戸に住んでいます。 「それでも、あんたたちはおかずがあったからええやないの。私なんていつも遅れて座るから、何にも残ってへんかったよ。あんたたちが子供の頃は、お漬物でご飯食べてたわ」 と、おばさんは言います。でもその顔は、やはり楽し気でした。  まな姉は食べるのが早く、あっという間に食べ終えると、居間の方へ行ってテレビをつけました。阿部家ではおじさんの方針で、台所にある食卓からはテレビは見れない位置にありました。まな姉がテレビをつけた頃、表に車が入ってくる音が聞こえました。 「あ、お父さん帰ってきたよ」 まな姉が言います。するとおばさんが、 「音が違うから正善じゃないかなぁ」 と言いながら、冷蔵庫のほうへ立ちました。もう一切れ鯖を出して焼器に入れます。エンジンの音が止まってしばらくすると、 「たっだいま」と、正善さんの声がしました。 「おっかえり」と、返事を返してから、 「お母さんって、車のエンジンの音聞き分けられるんやね」 まな姉が感心して言います。 「ちがうちがう、お父さんの車の音だけ、毎日聞いてるから分かるの」 おばさんは正善さんの分の茶碗なんかを出しながら言います。居間の扉が開いて、正善さんが入ってきました。 「やっぱりまなみの声やったか」 「久しぶりに夕食ご馳走になってました」と、まな姉。 「綾ちゃん久しぶり。お母さんが寝込むと大変やね、家事やる人がいなくなって」 正善さんはまな姉の隣に座りながらいいました。私もまな姉も何か言おうとしましたが、その前におばさんが、 「正善、悪いけどそっちに座り込む前にご飯食べちゃって」 と言います。 「了解」と言って、立ち上がりかけた正善さんの肩に手をまわすと耳もとで、 「もうちょっと姉さんのところでゆっくりしてくるかと思ってたのに」 まな姉が囁くのが聞こえました。 「なんで? 面会時間、八時までやったぞ。そんな遅くまでおれんやん」 マー兄はそう言って食卓につきました。まな姉は、ふーんっと言った顔をしています。 「綾ちゃん、玄関に白い箱置いてあるから、帰る時に持って帰ってね。受験勉強の差し入れ」 正善さんはオムレツをつまみながらそう言います。私が、えっ? って顔をしているのを見て、 「かおりんとこに持ってったら、自分の分だけ抜いて、あとは持ってけって言われてん」 と、付け足します。 「ありがとう。なに? 食べ物?」 私は聞きました。 「そ、女の子の大敵!」 「あー、ケーキだ。いいなぁ、綾だけ?」 まな姉が話しに割り込んできました。 「綾に頼んで分けてもらえ」 正善さんはまな姉にそう言うと、私を見てウインクしました。私は「うん」とうなずいて笑いました。それを見ていたまな姉は、 「こらこらおじさん、女子高生口説いたらあかんよ。犯罪やで」 また食卓のほうにやってきて、マー兄の肩をポンポンと叩きました。 「誰が口説いてんねん」 「何を慌ててんの。ひょっとして図星やったん? やらしー」 まな姉は、マー兄の横に座って言いました。 「綾、マー兄もおじさんなんやから、気をつけなあかんよ」 「おじさんって⋯。おばさんに言われるとは思わなんだな」 「こらー、おばさんって言った口はこれか」 まな姉がマー兄のほっぺを、ギュっとつまみました。が、またおばさんに怒られて、頭を叩かれていました。  その後おじさんも帰ってきて話は弾んでしまい、家に帰ってきたのは十時を軽く過ぎてからでした。途中で時間が気にもなったのですが、みんなでわいわい話してるのが楽しくて、ついつい長居してしまいました。
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