第一章

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平成十七年四月三十日:(四)  家に帰ってきてすぐにシャワーを浴びました。シャワーを終えて出てくると居間の電気は消えていて、まな姉はいませんでした。私は玄関横のまな姉の部屋のふすまを開けて、 「お風呂あいたから」と、声を掛けます。 まな姉は片方の耳にヘッドホンをあてて、キーボードの前に座って譜面を見ていました。パソコンのスピーカーからは聞いたことのないメロディーが、何かの管楽器の音で流れていました。まな姉は音大を大学院まで行ってから、東京のレコード会社に就職しました。でも、そこでは営業の仕事だったようで、やりたかった音楽の仕事には就けずに二年前に退職。大阪に帰ってきて音楽関係の事務所と契約、編曲やアレンジの仕事をしています。自称、作曲家です。 「ありがと、後で入る」 譜面に何かチェックを入れながら言います。私はしばらくスピーカーから流れてくる音を聞いていました。軽快な感じはするのですが、一種類の楽器の音だけなので何か物足りない感じです。 「どした?」 戸口に突っ立ったままの私を見て、 「中入っていいよ」 まな姉が声をかけてくれました。 「ううん、何の楽器かなって思っただけだから」 私がそう言うと、 「何だと思う?」 まな姉が聞いてきました。 「う~ん、トランペットじゃないよねえ、トロンボーン?」 思いついたのを適当に言いました。 「はずれ。ホルンでした」 まな姉は笑顔で言いました。 「ホルンってこういう音なんだ」 「そ、ホルンだけの音って聞いたことないでしょ」 そう言うまな姉の顔はとても真面目な感じでした。 「ホルンだけの曲なの?」 「ううん、そうじゃないけど」 私の問いかけにそう答えるまな姉。でも私がそのまま立っていたので続けて説明してくれます。 「今私が関わってる大学のブラバン部なんだけど、四年生の約半分がホルンなのよね。で、秋の学祭の時に毎年四年生だけで一曲やるのが恒例になってるの」 「うん」 「ホルンがそれだけいるのに、普通にやると面白くないでしょ。だからホルンのパート分けを考えてるの」 「そううなんだ、面白そう」 私がそう言うと、まな姉は顔を上げてこっちを向きました。 「でもねぇ、来年から大変なんだよ。一気にホルン担当が三人だけになっちゃうから」 そう言うとまた譜面に目を落とすまな姉。なので私は自分の部屋に行くことに。 「じゃ、私上行くね」 「おう、勉強がんばれよ!」 私はふすまを閉めかけます。でも、 「あ、ちょっと聞いていい?」 と、もう一度部屋のほうに向き直りました。さっきの、まな姉の言葉が思い出されたのです。 「なに?」 「夕方、マー兄が来たらお邪魔って言ってたの。あれどう言うこと?」 私がそう聞くと、 「うん? そんなこと言ったっけ?」 キーボードのほうに向いてしまいました。 「言ったよ。な~んか気になってたの、どういう意味かなって?」 まな姉は譜面を見ていて答えようとしませんでした。でも、私が戸口に立ったままなので、 「私の主観ってだけで、根拠は一切ないからね。そこんとこよく理解してよ」 私のほうにまた向き直って言いました。 「主観? どういうこと?」 私はまな姉が何を言い出すのか分からず、また聞きました。 「う~んとね。⋯姉さんって、マー兄のことが好きでしょ。⋯そういうことよ。分かった?」 まな姉にそう言われても私にはピンときませんでした。でもちょっと考えると、まな姉がどういうことを言おうとしているのか分かった気がしました。 「あれ? そういうこと?」 「そ、あんたにはちょっと刺激が強い話かもしんないけど。私はそう思ってるから、お邪魔かなって」 まな姉はそう言いました。でも私は前から別のことを勝手に思っていて、 「でも、お母さんとマー兄の親しさって幼馴染だからで⋯。そういう意味でマー兄を好きなのは、まな姉じゃないの?」 と、言ってしまいました。 「何言うてんの。そんなことあるわけないでしょ。マー兄は、あたしにとって本当に兄貴なの。何言っても、何やらかしても、必ず許してくれるって感じの、気安い兄貴なの」 そう言うまな姉。 「なんか、マー兄かわいそう」 「え~、十分良いこと言うたでしょ」 「うん、まな姉にとって良いことね。じゃあ、お母さんもそうやないの?」 私は聞きました。 「姉さんは⋯。わかんない。でも、違うと思うな、私は。昔からずっと」 まな姉は、途中からうつむいて言いました。 「昔からって?」 「⋯わかんない。ずっと昔、子供の頃から」  私はしばらく何も言えませんでした。でも一つ頭の中で浮かんできたことがありました。それは、物心ついたときから引っかかっていること。それは、私の父のこと。母の旦那さんだった人のこと。中学生のときに一度、母に真剣に聞いた事がありました。そのとき母は教えないと言いました。死んだと言ってごまかすこともできるけど、そうではないので教えないとしか言えないと。どこの誰かぐらい教えてと、母に詰め寄りました。けれど教えないとしか言わない母。私はかなりひどい言葉で母にかみつきました。途中から父のことを聞くのではなく、母を問い詰めることが目的に変わっていたかも。母はしばらく黙り込んでから、『ごめんなさい。これは私なりの意地とけじめなの。そのせいであなたを父親のいない子にしてしまっている。本当にごめんなさい』そう言った母の目には、涙が滲んでいるように見えました。母の涙を見ると、私は自分がすごく悪いことをしている気分になり、自分の部屋に逃げたのでした。その後この話題に触れたことはありません。母が涙を流すような話題は、頭の隅に追いやっていました。それが今、子供の頃から母が正善さんのことを好きだったかもしれない、という話を聞いて、いろんな疑問や解釈と一緒に湧き出てきました。 「マー兄って、私のお父さん?」 私の口から出た言葉にまな姉は驚いて、 「ちがうちがう。何でそうなっちゃうのか訳わかんないないけど、それは絶対にない」と、 「てか、そんな風に見えてたの?」と呆れ顔でした。 「でも……」 私が何か言おうとしたらまな姉が遮るようにこう言います。 「姉さんが結婚したとき私は中学生だったけど、綾の父親のことは覚えてるもん」 「でも、子供の頃から好きだったって⋯。じゃあお母さんは、私のお父さんのこと⋯」 私は複雑な気持ちでした。 「そっちかぁ~、失敗したなぁ。なんで話がそっちの方向に行っちゃうかなぁ」 (綾に父親のことは話すなって口止めされてるのに)って続きのセリフまで聞こえたような気がしました。私が何も言わずにまな姉の顔を見続けていると、まな姉は私の所によって来て机の前の椅子に座らせました。 「絶対に、姉さんに言わないって誓ってね」 私は無言で頷きました。 「あんたもこのまま私がはぐらかすと、すっきりしなくて受験勉強どころじゃないだろうから、少しだけ話してあげる」 私はもう一度頷きました。 「まず、姉さんの相手がマー兄じゃないってやつ。姉さんとマー兄は同い年でしょ? 姉さんが結婚したのは短大卒業してすぐ。その時マー兄は大学三年生なわけだから、常識で考えてありえないでしょ。だいたいマー兄って、確か姉さんの結婚式も出てないんじゃないかなあ。よく覚えてへんけど、その頃しばらく日本にいなかったと思うから」 まな姉は私の顔を覗きました。私は小さく頷きます。 「そして、これが一番聞きたいんやろうけど。あんたの父親と姉さんは、大学のサークルで知り合ったの。姉さんは女子短大やったけど、共学の大学もくっついてたから。姉さんが短大に入ったとき、相手は四年生。私は小学生やったからよく覚えてへんけど、知り合ってすぐ付き合ってたんやないかなあ。うちにもよく来てた。私も何度か姉さんと一緒に遊びに連れてってもらった覚えがあるよ。そしてそのときの姉さんは、すっごく楽しそうやった。だから間違いなく、二人は本当に好き合って結婚したの。ただ、なぜかすぐに離婚しちゃったけどね。その理由は私も聞かされてへんから知らない。ま、若すぎたって言うのが正解やろうけど。そして、あんたが産まれたの」 まな姉はまた、私の顔を覗きこんできました。 「その人のことをお母さんがそんなに好きだったって言うなら、なんでまな姉はさっき子供の頃からずっとって言ったの?」 私は聞きました。まな姉は髪をかき上げて私を上目で睨みます。 「あんたは人を追い込む達人かも。刑事とか向いてるんやない?」 そしてそう言ってから話を続けてくれました。 「私も理解しきれないことがあるから、あんたもこれから話すこと、理解できなくても質問せんでよ。⋯姉さんとマー兄の間にはもう一人重要な人物がおるの。この三人の関係は、すっごく複雑やの」 「三人って、お母さんと、マー兄と、私のお父さんのこと?」 私は質問してしまいました。 「違う。姉さんと、マー兄と、それと水野聡子さん。名前聞いたことあるでしょ?」 私は頷きました。頷きましたが、なぜ水野聡子さんが出てくるのか見当がつきませんでした。 「この三人が出会った頃って、私はまだ幼児。いや、まだ赤ん坊くらいの頃。出会った経緯とかも、その頃の三人のエピソードもほとんど知らない。でも三人には、三人だけの世界があったと思うの」 「聡子さんって、もう亡くなってるよね」 私はまた聞きました。 「うん、姉さんが結婚する前の年。私が小学校六年生だったかな? いや、制服着てお通夜に行ったから中一だ。とにかく姉さんと聡子さんは仲が良かったよ。もう一人、お向かいの純子さんとも仲良しだったけど、比較にならないぐらい。しょっちゅう家にも来てたし、泊っていくこともよくあった。おかげで私も聡子さんにはよく遊んでもらったよ。ただ、聡子さんはマー兄の彼女だった。いつから付き合い始めたのか、三人とも同じくらい仲が良かったのに、なぜ姉さんじゃなくて聡子さんとマー兄が付き合ってたのか、そのあたりは全然分かんないんやけど。ただ、マー兄と聡子さんが恋人同士ってことにはなってた。けど、三人の関係はずっと仲良し三人組のままじゃなかったのかなと思うの。三人以外の人が、マー兄と聡子さんを付き合ってるってことにしちゃっただけで、三人の中ではその中の二人が付き合ってるって意識はなかった。と、私は考えてる」 しばらく沈黙になってしまいます。私は始めて聞く話に混乱していました。聡子さんのことは聞いたことがあります。ただし、母たちの小学校の同級生で、そしてもう、交通事故で亡くなっている。それ以上のことは聞いたことがありません。私は聡子さんが亡くなったのは子供の頃だと思っていました。小学生のときに車にでもひかれたのだと。でも今のまな姉の話だと、三人は少なくとも大学二年までは一緒にいた。青春時代を一緒に過ごしていた。そして、その中でマー兄と聡子さんは付き合っていた。母がマー兄のことを好きだった。子供の頃から思い続けていた、としたら、その頃の母はどういう気持ちだったのか。また、私の父と出会って、恋をしたとき、どういう気持ちで二人と接していたのか。だいたい私はまだ恋をしたことがない。好きな男の子くらいはいたことがあります。でも多分、片思いと言うほど強い感情ではなかった。友達が言うような、好きな人のことを考えるとドキドキするとか、切なくなるとか、そういう感情を経験したことがありません。そんな私には到底理解できないのかも知れない。でも、一つだけ感じることがある。仲良し三人組だった母たちの中で、マー兄と聡子さんが恋人同士になった。それでも母は、二人と同じ時間を過ごしていた。それはやはり、母もマー兄のことが好きだったから⋯。あ、ひょっとしたら、マー兄と聡子さんが付き合い始めたのは大学に入ってから? だから母はマー兄達と離れて、私の父と恋をした。そういう結論が頭の中にすーっと生まれてきました。私は何だかすっきりと納得できたような気になりました。顔を上げるとまな姉と目が合います。 「わかんないでしょ」 まな姉が言いました。 「わかんないけど⋯⋯、分かったような気もする」 私は、天井の蛍光灯を見上げながら言いました。するとまな姉は、 「ほんとう? 私だって最近やっと姉さんの気持ちがわかってきたような気がするだけやのに。何であんたに分かるんやろ。ま、私と姉さんは姉妹って関係やから、根本的に違うかも知れへんけど」 と、言います。意味がいまいちわかりませんでした。 「聡子さんって、どういう人やったの?」 私はまな姉の顔を見て聞きました。 「どうって言われてもねえ、私は子供だったから。うーん、面白くて優しい人だったイメージ。あ、写真あるよ、見る?」 まな姉はそう言って本棚からアルバムを抜いてきました。ベッドに腰掛けると、私にアルバムが見えるように開いてページを繰っていきます。 「あ、これこれ、この人だよ」 私は隣に座って写真を覗き込みました。 「これは私の七五三のときの写真で、私が七歳。姉さんたちは十四歳、中学二年のときだ」 写真を覗き込む私の横でまな姉が言いました。写真は家の前で撮られたものでした。きれいな桜色のかわいい振袖を着た女の子が、その横に膝をついて寄り添う優しい笑顔の女性と写っていました。着物の女の子はまな姉、そして横の女性は母たちのお母さん。私の祖母でした。その二人の後ろに学生服姿の三人の笑顔が写っていました。真ん中はマー兄、頭が丸坊主なのでなんだか笑えます。マー兄の右隣に母。ポニーテールの母は、すごく活発なイメージ。そして、左側が聡子さん。母と比べると小柄で、卵形の小さな顔、髪はショートカット。そんな女の子がニッコリ笑って写っています。ただ、母とマー兄の間には少し空間がありますが、聡子さんとマー兄はぴったりくっついています。また少し、何かが引っかかりました。だけど、何かもっと大きな違和感が写真にありました。私は桜色の着物姿のまな姉が写った、似たような写真を見たことがあるような気がします。今まで忘れていただけ。懐かしい感じ。でも、違和感は大きくありました。それが何なのかは、全然思い当たりませんでした。このときは。まな姉が黙って写真を見続けていました。指で自分の母親をなぞっています。 「お母さん、この後しばらくして死んじゃったんだよね」 まな姉は顔を上げて私のほうを見ると続けました。 「この頃、お母さんはずっと入院してたんやけど、この日はちょうど家にいたの。今思うと、私の為に退院してきてたのかな。多分この翌日くらいに病院に戻って、そのまま帰ってこなかったと思う」 私はもう一度、写真の中の祖母を見ました。祖母の写真は色々見たことがあるけれど、まな姉にそう言われて見ると何だか悲しげな笑顔にも見えました。娘たちと一緒にいられる最後だと、覚悟しているような。 「こうやって改めて見ると、この一見明るい写真もすんごく悲しいね」 まな姉がいつもの声の調子に戻って言いました。私がキョトンとしていると、 「だって、五人しか写ってへんのに、この中の二人はもういないんやもん」 と、続けます。 「⋯⋯」 私はどう反応すべきか考えていました。するとまな姉がまた口を開きます。 「確かに二十五年前の写真やけど、最年長の人が生きてても六十代なんやから、全員健在で当たり前でしょ、普通なら」 「そうだね」 私はポツリと言いました。するとまな姉はアルバムを閉じて本棚に戻しながら、 「さあ、シャワー浴びてこよ。あ、他にも聡子さん写ってる写真あるから、見たければ勝手に見てええよ」 と言います。 「ううん、今はいい。じゃあ、私上行くね。おやすみ」 私はそう言うと部屋を出て階段を上がりました。階段の途中でまな姉に呼び止められます。 「綾、明日何時起き?」 「六時かな、七時には出たいから」 「OK。起こしたるから安心して夜更かししてええよ。ただし、試験中の居眠りまでは面倒見れんからね」 「まな姉、起きれるの?」 「あんた起こしてから寝る」 「ありがと、それじゃおやすみなさい」 私は自分の部屋に向かいました。 このときはまだ、いつもと変わらぬ日常でした。
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