優しさ同盟

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 黄色い押し花をはさんだ栞を拾った。  これはきっと彼女のものだ。いつも僕が座るまえに、この席に座っている読者家の彼女。明日、彼女にこの栞を返そう。きっと喜んでくれるに違いない。  そんなことを考えながら、僕は目黒までの残りの乗車時間を静かに過ごしていた。  東京メトロ南北線の三両目。朝の通勤ラッシュの時間。西ヶ原から乗車する僕は今日もそのひとの前に立った。名前も知らない女のひと。彼女はいつも同じ席に座っていて溜池山王で降車する。  目黒まで乗っていく僕とはそこで席を交代ばんこ。お互いに名前も知らないけれど、なんとなくいつの間にか生まれた僕らの習慣。  暗黙の了解になっていたんだと思う。  話したこともないけれど知らぬ間に同じ電車に乗るもの同士の同盟関係がそこにはあった。僕はそのささやかな関係性を心地よく感じていたし、おそらく彼女もそうだと思う。  誰にも迷惑をかけないし、誰も傷つけない優しい関係。混みあった忙しい朝の車内で生まれた「優しさ同盟」だ。  彼女はいつも本を読んでいる。  そんな彼女の姿にあこがれて、いつからか僕も電車のなかでは読書をするようになった。真似をしているようでちょっぴり恥ずかしいところもあったけど、またひとつ絆のようなものができたことを心なしか誇らしげに感じていた。  溜池山王に到着すると、彼女はいつも微笑みながら席を立ち「どうぞ」と席を譲ってくれる。柑橘系の爽やかな彼女の香水のにおい。僕はその譲り合いの瞬間が、毎朝楽しみでならなかった。  今日もその瞬間まではいつもと同じささやかな日常。彼女が立ち上がり席を譲ってくれる。メトロのなかをゆっくりと流れる優しい時間。  いつもと少し違ったのはそのあとだ。彼女が去っていったあと、僕が席に座ろうとしたときに、それはあった。座席の上に黄色い押し花をはさんだ「栞」が落ちていたのだ。 「彼女のものだ」と瞬時に気づいたものの、彼女はすでに降車済み。溜池山王駅の喧騒のなかに消えていってしまっていた。  明日、僕はこの栞を彼女に返す。  そしてあわよくば、勇気を出して少し話しかけてみよう。僕らの物語が、メトロのように走り出す予感がした。
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