ここから…

1/1
前へ
/1ページ
次へ

ここから…

風が髪をなびかせる。 ここから飛び降りようと身を乗り出したその時、後ろから手首を掴まれた。 思いとどめよう、阻止しようとして掴んだのか。 振り向くと、拍子抜けするような爽やかな笑顔で私の手首を掴む青年がいた。 「僕、チョコミントが好きなんだ」 そう言った彼は掴んでいた手を離して、助走をつけてここから飛び降りた。 ミントの匂いの風が吹く。 「えっ」 思いがけない出来事に体が固まる。 彼が飛び降りた場所から下を覗き込んだ。彼の血が道路を染めてゆく。 ほどなくしてサイレンの音が響く。緊急車両が来た。 倒れる彼の周りには人が集まっていた。 彼は呆気なく死んだ。 本来ならば私が、今の彼のように倒れていたはずだった。 彼が先ほどまで掴んでいた手は彼の名刺を握っていた。 二人の人間がたまたま同じ目的で、同じ時、同じ場所で会っただけなのか、彼は元から死ぬつもりだったのか、それとも…、彼はなぜ死んだのか、今となっては誰も分からない。 梅雨入りし、雨粒が地面に波紋をつくる。 今年の夏は全国的に猛暑日が続き、夏の空に向日葵がよく映えた。 彼が今年の夏を知ることは無いだろう。 ススキが揺れる中秋の名月。 赤い椿に積もる雪、ダイヤモンドダストは幻想的な空間を作り出す。 桜吹雪で水面は桜色に。 私はあれから一年生きた。 今私が見ている景色を彼は知らずに死んだ。 彼が何故あの時に飛んだのか、今だ分からずにいる。今の私は彼のおかげで存在しているようなものだった。 今でもミントの風が吹くと彼を思い出す。 私は彼がチョコミントが好きなことしか知らない。 全く知らない彼を思い出すと何故か心臓がキュッと苦しくなり涙が頬を伝う。 彼に手首を掴まれた時に渡された彼の名刺。 名前は丁度滲んでいて読めなかった。 その名刺を一年ぶりに手に取ってみた。やはり滲んでいて分からなかった。 が、 「占い師…?」 それだけは読めた。 彼はこうなることが分かっていての行動だったのか、はたまた衝動的に動いたのか、彼が何を考えていたのかは分からない。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加