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「営業……って」
「改めまして私悪魔です。ええと、たぶん私の名前を聞いて最初に想像した、普通にピンと来る悪い魔物のほうのアクマです。わかります?」
「わ、わかるけど……いったい僕になにを売ろうって言うんだい?」
むしろ取引相手が悪魔なら売るのは僕のほうなのでは。魂とか。
「さきほどお見せした営業テクニックとそれを支える精神力とかいかがでしょう」
それは、喉から手が出るほど欲しいな。いや冗談抜きで悪魔に魂を売ってでも欲しい。
けれども。
「買えるんならそりゃありがたいけどね。おじさんをからかうもんじゃないよ」
真に受けるほうがどうかしてる。不快になったわけではないけれども、あまり笑って流せる話でもなかった。彼女の話術も僕のような唐変木には効果が無いらしい。
「ご存知の通り僕は我が社の給料泥棒さ。君のような初日から契約を取って来れる若者にとっちゃゴミ同然の存在だと思うよ。でもね、そういうからかいかたは止めてくれないか」
「凄いですね」
「なにがだい?」
「そんな淡々と魂の慟哭のような懇願をされたのは生まれて初めてです」
「ははは、僕も他人にこんな愚痴だか泣き言みたいなこと言ったのは生まれて初めてだよ」
なんとも空しい会話だ。
しかし彼女はなにか思うところがあったのだろうか、立ち上がって僕の目の前に立った。
「まあ、ちょっとびっくりしましたが疑われるのは想定の範囲内です。まずは商品を体験してみませんか?」
「商品を……? まあ、出来るものならしてみたいな」
営業テクニックと精神力をどうやって体験しろと言うのだろう。引くに引けなくなっているのだろうか。口上手な彼女らしくもない。
「それじゃ失礼しますね」
しかし彼女はそう言って身体を折ると、見上げていた僕のくちびるを自らのそれで塞いでしまった。
思考の空白。作為的に作られたその空き地になにかが流れ込んでくる。
数秒後、彼女はふたりのあいだで水あめのように垂れたものを舐め取りながら艶然と促した。
「それじゃ帰社までまだ時間ありますし、一軒行ってみましょうか」
「あ、ああ……わかったよ」
ファーストキスを若い娘に奪われたから、なんて下世話な理由じゃない。彼女に注ぎ込まれたなにかが僕を突き動かした。
根拠のない全能感が全身を支配している。
そして僕は。
この日、初めて契約を取ることに成功した。
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