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「あーあ、収穫なしかぁ」
唇を尖らせて、東雲がエレベーターホールへ向かう。
「俺、五十嵐さんの顔みたかったっす」
後に続く荒井が、残念そうに呟いた。
そうか。
山口は東京本社でたまに顔を合わせるが、五十嵐の異動以来、彼らにはそんな機会もないのだ。
「今からでも五十嵐に連絡して、普通に会う約束したら?別に問題ないよね?」
山口が振り返ると、凱は首肯した。
「恵は明日から連休だ。ブラウンのおっさんはアメリカに帰ってるし、これ以上仕事で振り回されることもないだろ」
「やったぁ!」
荒井は小さなガッツポーズを作り、顔を輝かせる。
山口はエレベーターのボタンに手を伸ばしかけて、ふと東雲を振り向いた。
「東雲さん。俺思うんですけど。五十嵐があれだけ頑なに恋人の素性を隠すのって…それ相応の理由があるんじゃないかなって」
「事情って、例えば?…まさかJK改めJDは隠れ蓑で、人妻と不倫してるとかじゃないわよね?」
「あ、俺も真っ先に訊いたんですけどそれはなさそうです。誰かと婚姻関係にある人と交際するなんて有り得ない、相手の家族も傷付けることになるんだぞって。あいつにしてはかなり強い口調で否定されて、びっくりしました」
「あー」
凱が漏らした小さな反応を、東雲は見逃さなかった。
「お孫ちゃん、何か知ってるの?」
「…まぁ多少は」
「何かあったのかしら?」
「あー。そこらへん恵もあんま話したがらないから、出来ればそっとしといてやってくれ」
「そう」
凱の真剣な表情をみて、東雲は追及をやめた。
山口は感心した。
凱とは知り合ってから一年も経っていないはずだが、五十嵐はかなり踏み込んだ話をしているようだ。
山口の知る五十嵐は、基本的に人に弱みをみせない。
凱は五十嵐にとって、余程信頼に足る人物なのだろう。
「東雲さん。五十嵐のこと心配でしょうけど、お孫さんに任せませんか?彼が側にいるならきっと大丈夫ですよ。俺、今日会って確信しました」
凱が僅かに目を見開き、荒井はうんうんと頷く。
「俺も同じこと思ってたっす」
「…まぁねぇ。物理的にも距離があるし、今は遠くから見守るしかないのかも。でも決して諦めた訳じゃないのよ。いつの日か必ず真実をこの手に…っ」
「大袈裟っす」
全員が車に乗り込むと、山口はエンジンをかけ、アクセルを踏んだ。
「さて、帰りますか」
大学のある山の上から中腹辺りまでは街灯がほとんどなく、ハイビームのヘッドライトだけが行く道を照らしている。
助手席で、東雲がふと口を開いた。
「五十嵐くん、お孫ちゃんさえいたら女なんか要らないんじゃないかしら」
「いやぁ、彼女は別口っしょ」
後部座席から荒井が身を乗り出す。
「けど俺、五十嵐さんがあんだけ誰かに甘えてるの初めてみたかも」
「うん。俺もそう思った」
「いっそお孫ちゃんが彼女なら安心なんだけど」
「ええ。俺もそう思いました」
「あっ、そだ。俺、今から素知らぬフリで五十嵐さんにお伺いメッセージ送りますね」
荒井がスマホを取り出し、五十嵐にメッセージを送る。
「えーと。『こんばんは。夜分遅くににすみません。実は今、東雲さんと東京に遊びに来ています。山口さんちに泊めて貰ってるんですけど、明日あたり会えませんか?』と。よし、送信」
「へぇ。そういうことしれっと出来るようになったのね。大地も大人になったわ」
「いやぁ。お孫さんみてると俺もしっかりしなきゃって思うっすよ。さっきだって、五十嵐さんを傷付けないために、黙って俺らのこと部屋に隠してくれたっしょ。ちゃんと俺らの顔も立ててくれたっす。俺もさりげなくああいうこと出来るようになりたいんすよねー」
「分かるよ。彼は一見クールだけど、実は気遣いの人だよね。女の子にもモテるだろうなぁ」
「俺が女だったらコロッといっちゃうかも」
「大地、あんた五十嵐くんにもそんなこと言ってなかった?」
「そりゃあ五十嵐さんは俺の理想っすから。あっ!五十嵐さんから返信キターッ」
東雲の言葉ではないけれど、五十嵐のような生真面目な男には、凱のように包容力のある恋人が望ましい。
ついでに、今の恋人みたいにビッチ…もとい経験豊富で五十嵐をリードしてくれる子なら最高なのだが。
まあ、そんな完璧な恋人はそうそうみつからないか。
頑張れよ、五十嵐。
その時、山口の脳裏に東雲の言葉が浮かんだ。
-開き直って爛れた性生活送ってる間に、五十嵐くんに先越されちゃうんだから。
他人の心配してる場合かと東雲に突っ込まれそうだが、山口は親友の幸せを心の底から願っている。
五十嵐、俺の屍を越えてゆけ。
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