3 悪いひと

1/1
前へ
/11ページ
次へ

3 悪いひと

 幸いにもコンサートの時のもめ事は兄に知られずに済んだようだと、私は三日が過ぎる頃にほっと胸を撫で下ろした。 「お嬢様。お客様です」  午前十時を少し回る時間帯、手習いである琴の先生がお帰りになった直後のことだった。 「どのようなご用件でしょう?」 「お嬢様にお助け頂いたということで、お礼の品をお持ちしたとのことですが」 「助けた?」  そのようなことがあったかしらと首を傾げた時だった。 「レオニード・カルナコフという方だそうです」  私は思わず使用人の前で声を上げそうになる。  どうしてカルナコフさんがここにと、信じられない思いで必死に驚きの声を飲みこむ。 「追い返しましょうか」 「いいえ」  咄嗟に否定の言葉が出てしまった。それをさらに覆すことも私にはできなかった。 「お会いしましょう。案内してください」  なんとかそれだけ告げると、私は使用人の後に続いた。  廊下を渡って母屋の方にある客室に足を踏み入れる。  カルナコフさんは障子を開いて朝の日差しの中に立っていた。日本家屋の中で銀髪碧眼の彼は明らかに異質で、クリスタルの細工物のように透明な輝きを放っていた。 「……おはようございます」  家の中とはいえ私の側には常に人がいる。私の言動一つでもすぐに兄に伝わってしまう。  ためらいながら私が口を開くと、彼はくすっと笑う。 『秘密の言葉で話そうか?』  はっとして顔を上げる。カルナコフさんは悪戯っぽく首を傾げて私を見ていた。 『この家であなたの言葉がわかるのは私と兄だけだと思います』 『そう。じゃあ肩の力を抜けばいいんじゃない?』  彼はさらりと言葉を口にする。 『この間は君に助けてもらったからね。お礼に、君のお願いを一つ聞くよ』 『とんでもない。私が勝手にしたことです。それより』  私は目を伏せて首を横に振る。 『私とは関わり合いにならない方がよろしゅうございます。表からお越しになったなら、私がどういった家の者かはおわかりでしょう?』 『うん。ヤクザ屋さんだね』  カルナコフさんはあっさりと認めて続ける。 『でもそれは君に会った時からわかってたことだよ。君を監視してるその筋の人を何人も見かけたからね』 『え……』 『住所を調べた時に、君のお兄様がその頭だってことも知った』  にこと底の見えないような笑い方をして、彼は目を細める。 『まあそんなことは僕にはどうでもいいことだよ。それで、君は僕に何を望む?』 『望むだなんて、そんな……』 『欲しくないなら何もあげないよ。今度こそさよなら。それでいい?』  私は言葉に詰まった。 「お嬢様、何の話をしていらっしゃるのですか?」  困った様子の私に、控えていた家の者が怪訝そうに近付いてくる。  私は俯いてから、意を決して顔を上げた。 『……あなたの時間を少し頂けますか。私に、あなたと過ごす時間を』  カルナコフさんは優雅に笑い返した。 『いいよ。でもそれはここでは自由にできないね』  カルナコフさんは辺りを見回して、一つ頷く。 『場所を変えよう』  ふいに離れの方が騒がしくなった。家の者たちが集まる気配を感じる。  私はあまりのタイミングの良さに、咄嗟に使用人へ振り向いていた。 「様子を見て来てください」 「いや、しかし」 「行きなさい」  私が短く命じると控えの者が出て行って、私はカルナコフさんと二人きりになる。 「こっち」  彼は手招きをして、私を玄関とは逆の方へと導いた。  巧みに人のいない場所をくぐりぬけて裏口まで来ると、彼は私を連れていとも簡単に家の外に出てしまった。 「あなたは何者なのですか?」 「誘拐犯」  路地にたてかけてあったバイクをけとばしてエンジンをかけると、彼はヘルメットを私に投げてよこす。 「ハルカ、誘拐されてみる?」  大輪の花のような微笑を刻んで、カルナコフさんは振り向いた。 「……あなたは悪い人なんですね」  私はそんな彼に見とれた自分に呆れながら、ヘルメットを被った。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

148人が本棚に入れています
本棚に追加