「少年探偵 江戸川乱歩全集」刊行まで

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「少年探偵 江戸川乱歩全集」刊行まで

 戦前、江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズは、講談社の少年向け月刊誌「少年倶楽部」に連載。連載終了後、講談社より単行本として刊行された。  1936年(昭和十一年)より一月号~十二月号の一年間連載完結のスタイルで全四作が執筆されている。 『怪人二十面相』(「少年倶楽部」1936年一月~十二月号) 『少年探偵団』(「少年倶楽部」1937年一月~十二月号) 『妖怪博士』(「少年倶楽部」1938年一月~十二月号) 『大金塊』(「少年倶楽部」1939年一月〜1940年二月号)  戦後、講談社は占領軍による財閥解体を予想し新たに光文社を設立。一部の社員は光文社へ異動した。  元講談社出版局児童課課長だった神吉晴夫(かんきはるお)が光文社の出版局長に就任。  講談社の経験を活かし「少年痛快文庫」という少年向けの冒険時代小説のシリーズを企画した。  戦前、講談社から刊行され、戦後再刊されていない作品に目をつけ、光文社の「少年痛快文庫」で出版しようと計画したのである。  神吉が注目したのが、乱歩の「少年探偵団」シリーズであった。  神吉は講談社の児童書の責任者であった中里辰男(なかさとたつお)と相談し、戦前の「少年探偵団」シリーズの版権を譲渡された。  1947年春頃。神吉は乱歩邸を訪問し、「少年探偵団」シリーズ出版の承諾を得ようとした。中里も同行するはずが何か別の用事が入ったため、まずはひとりで訪問することとなった。  ところが玄関で光文社の神吉と名乗ってからずっと待ちぼうけを食い、一時間半が過ぎたのに誰も来ない。  そこへ中里が遅れて到着。講談社の名前を出すとすぐに乱歩が出てきた。  神吉は乱歩の豹変に頭にきていたがじっと堪えた。  乱歩は「少年探偵団」シリーズの刊行を快諾した。乱歩の自伝「探偵小説四十年」で は講談社からは再刊の予定がないそうなので、講談社の分身の光文社から刊行されるのなら異議はなかったと語っている。  『怪人二十面相』は光文社の「少年痛快文庫」より1947年六月に刊行された。七月に『少年探偵団』、翌1948年四月に『妖怪博士』と続き、どれも爆発的な売り上げを記録した。  当時、光文社は少年少女向け雑誌「少年」「少女」を刊行していた。  神吉は「少年」編集部に乱歩の「少年探偵団」シリーズの新作を連載するよう勧めた。  作家としてのブランクもあり最初は固辞していた乱歩だったが、編集部の熱心な依頼に応え、「少年」に1949年(昭和二十四年)一月号より『青銅の魔人』の連載が始まった。  たちまち「少年」の看板小説となり、連載終了後は光文社から単行本化され、好評を以て迎えられた。  以降、「少年探偵団」シリーズは、光文社の雑誌「少年」に毎年一月号から十二月号までの一年完結で連載され、1962年(昭和三十七年)十二月号の『超人ニコラ』まで長きに亘って続くのである。  連載誌も同じ光文社の「少女」、講談社の「少年クラブ」と増え、ラジオドラマ、映画、テレビドラマが制作され、一大ブームとなった。  光文社では「少年探偵団」シリーズの単行本化を一手に握り、他社へ連載された作品も全て光文社「少年探偵 江戸川乱歩全集」から刊行された。  乱歩は公式の文章では滅多に自慢を書かない人間だったが、「探偵小説四十年」ではこう書く。 <そんなわけで、私の少年もの出版は、当時ベストセラーなど出していなかった光文社の小さなドル箱となったのである>  神吉は度々、乱歩邸を訪れて売れ行き好調を報告した。 「商売ですからね。先生の本が売れなくなったら、こんなにきやしませんよ」    神吉はざっくばらんに乱歩に告げた。  神吉は後に「カッパブックス」「カッパノベルズ」を成功させ、光文社の社長に就任。「ベストセラーの神様」と呼ばれることとなる。 「少年」1950年(昭和二十五年)に連載された「少年探偵団」シリーズ戦後二作目の『虎の牙』。怪人二十面相が、魔法博士を名乗り、明智小五郎に知恵比べの挑戦を挑む。↓dfe8217b-2733-465f-b978-b42f46eb294f518c2262-35f3-4dc0-8df0-403903566093
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