なぜ氷川瓏にわざわざリライトをさせたのか?

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なぜ氷川瓏にわざわざリライトをさせたのか?

 ではなぜ乱歩は、武田武彦が連載した児童向け『人間豹』を、単行本化にあたってはわざわざ氷川にまとめさせたのか?  本来、武田武彦が執筆したのだから、単行本化も武田武彦が担うのが普通である。  これについては、乱歩自身にしか分からない。  そして乱歩は児童向けリライトについては、殆ど書き残してはいないのである。  だが大体の想像はつく。当時の氷川瓏は寡作家で、殆ど作品を発表していなかった。  これは氷川自身がそう書き記している。  1953年(昭和二十八年)。氷川は「宝石」に『睡蓮婦人』を発表。  公衆電話をかける女性に惹かれていく主人公が、その夫から彼女は既に殺されていること、彼女に惹かれる男は殺すと詰め寄らせて失神するストーリーで、画家の愛情の念をテーマに、現実と幻想が入り混じった作品となっている。  同作品は、1954年に昭和二十八年度の第七回日本探偵作家クラブ新人奨励賞を受賞した。  決定委員は氷川の師である江戸川乱歩をはじめ、大下宇陀児、島田一男、香山滋。二月二十七日に授与式が行われ、金一封が贈られている。  1954年の「宝石」五月号には、氷川瓏の言葉が掲載されている。なお「宝石」に転載されていた「探偵作家クラブ会報」の紹介では、「長い闘病生活」とある。 <……わたしがはじめて探偵小説を発表したのは昭和二十一年春の「宝石」第二号であるから今年ではやくも九年目になるが、その間にわたしが書いた全作品の数は極めて寡く、流行作家の一年間の作品数にも及ばない。これはいかにわたしが作家として非力であり、また怠惰であったかということを物語るもので、じつはわれながら愛想をつかしていたのである。  しかしわたしはこの九年の間、不思議と探偵小説に対する情熱だけは失わず、雨だれ式ではあるが、発表した一作一作に対してはわたしなりに精魂を傾けつくした。この情熱がなかったら、わたしはとうの昔に脱落していたろうと思う。……わたしはいま九年目の春にして、晴れがましく授賞されたということに対して感慨を禁じ得ない……>  晩年、1975年。絃映社『幻影城増刊 江戸川乱歩の世界』に寄せたエッセー『よるの夢まこと』では次のように書く。 <先生は私が戦時中に書いていた『乳母車』という僅か四枚の掌編を褒めてくださった。これは幻想とも「奇妙な味」ともいえる作であるが、先生の御推挙によって、創刊されたばかりの「宝石」誌に掲載され、これがきっかけとなって、私は幻想怪奇の作品をぼつぼつと書き始めるようになった。先生は本格を推進されていたが、一方戦前の変格の系統の継承も考えられていたのだと思う。  私に向ってある時、「日本には怪奇幻想専門の作家が少ないから、きみはそっちの方に向ったらどうか」とおっしゃった。だが菲才の私は先生のこの期待に添うことができなかった。痛恨に堪えない>  もうお分かりだろう。  乱歩は氷川におおいに期待していた。寡作家ということは生活的に非常に厳しい立場にあったことは想像がつく。  乱歩は愛弟子を経済的に助けたかった。  仕事をさせて生活的にも安定し、作家としての自信も湧くようにしたかったというのが真相であろう。  〖人間豹〗の場合、既に武田武彦の文章があったから、それを再リライトさせればよいと考えた。武田武彦のリライトが気に入らない云々は関係なく、逆に下敷きにする作品があるから、児童向けリライトの経験のない氷川瓏でも何とかやれると考えたのだろう。  ポプラ社でも、雑誌連載と違う作家が単行本にまとめるという提案には当惑したと思う。  しかし何と云っても乱歩は著作権者である。  乱歩から、 「武田君には了解を得ている」 と言われれば、特に反対もしなかったであろう。  もちろん乱歩は武田武彦には話をしたであろう。恐らく次のような内容ではなかったか? 「君が編集長をしていた『宝石』でデビューした氷川君だが、なかなか書けなくて苦しんでいる。収入もないので、助けてやってくれないか。君が書いた『人間豹』を本にしたいとポプラ社が言ってきているが、本にまとめるのは氷川君に譲ってやってはくれないか? 失礼なのは重々承知だが、氷川君のために頼む」  武田武彦も驚いたが、どうせ著作権はないから印税が入るわけではない。今後も乱歩には仕事の面で世話になるので了解したのだと思う。    
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