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するり、とニシェはその手を解いた。トモリがまだ「思い出していない」人魚の歌。朝焼けの海を背に、ニシェの姿がふわりと揺らぐ。
「きみが、あの子を食べるところを眺められるほど、ぼくは強くないんだよ」
浮かべる笑みは相変わらず、どこか痛みを孕むものだった。
けれど、それを理解していたのかいないのか。ニシェはなおも言葉を継いだ。
「きみの約束を、当てにするわけじゃあないけれど。ぼくの命が潰えるまで、あの子の願いを叶えるのは悪くない」
彼女はいつだって外の世界に憧れて、自分とともに歩むことを願ってくれていたから。
その旅路は、早々簡単に終わるものでもないだろう。皇国は広い。ルーナはおろか、長く生きたニシェであっても知らぬことは多くあるだろう。
ニシェの浮かべる笑みは、出会った頃よりもどこか柔らかな空気を帯びていた。
彼がルーナに向けていた笑みを自分にも向けてくれたと思うのは、少しばかり傲慢だろうか。
ひとつ、トモリは頷いた。彼の道行きを祝福するような力は持ち合わせていなくとも、できる限りの想いを載せたかった。
もし、トモリの言った「ニシェの居場所」が、どちらかの命尽きるまでに造れるならば。そんなことはニシェも、トモリも口にしない。ただその視線を交わすだけだ。
「……それじゃ。さよなら」
トモリのひとつの瞬きの間に、彼の姿はかき消えていた。トモリの手に残ったのは、一対の瞳。
祈るように、その瞳を飲み下した。
その瞳は、ほの甘く切ない味がした。
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