悪霊

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悪霊

 トントン、と肩を叩かれ寝返りを打つ。照明の眩しさから逃れようと額に手を遣り、薄目を開けて驚いた。  そこにはマスクをしていないウララの姿があって、「おはようございますお寝坊さん。もうお昼ですよ」と囁かれた。乾いた唇に触れるだけのキスをして、悠飛の側に腰掛ける。ベッドが沈んだ。 「もう昼…?」 悠飛はカレンダーか何かを探そうとして、そういえばそこが自分の部屋ではないとを思い出し、「何曜日?」と掠れた声で尋ねた。 「金曜日です」 「学校は?」 「それが休みだそうですよ。ラッキーですね」 確かにラッキーだと頷き、布団の中で伸びをした。その拍子に脇の凹みをくすぐられ、棒で突かれた芋虫のように身体を丸めた。背中の骨がポキポキという。 「痛みませんか?」 どことは言わないがウララの言わんとすることを察し、左手を腰にそえ、大丈夫だと首を横に振って自身の肩甲骨までをひと撫でした。欠伸が出る。  今朝のウララは特別だった。まず制服を着ていなかった。黒い七分丈のニットに黒のパンツを履いている。私服は初めてだとよく懐いた猫のように大きな瞳で見上げていると、微笑を浮かべたまま裸の肩を撫でてくれた。昨晩、彼を手酷く抱いたのが嘘のようだ。悠飛がおそるおそる彼の太腿とシーツの間に顔を埋め、甘えても、しばらくのうちは睦言を呟き好きなようにさせてやった。  だがそうやって布団の中でいつまでもボヤボヤしているといい加減ウララも普段の冷徹さを取り戻し、 「私の家なんですが」 と布団を剥ぎ取り立ち上がった。  悠飛は風呂に入って来いと言われて旅館にあるような浴衣を着、お前は来ないのか?もう入りました、さっさと行きなさい淫乱…という会話の後に部屋を追い出された。  廊下の突き当たりの階段を下り、磨りガラスの扉を開けるとその先が大浴場になっていた。脱衣所と浴槽、洗い場の区切りが無く風呂というよりプールだった。しかし入浴者は当たり前だが素っ裸で、何も着ないで夜の市民プールを泳いでいるような酷い違和感があった。  風呂を出て部屋に戻ると裸体に服を投げつけられた。着てみなさいと言われて刺繍入りの赤いシャツと白のパンツを履く。 「そういえば悠飛さん、臍の横に小さい傷があるんですね」 「手術痕」 「盲腸ですか?」 「そう」 なぜかフフと笑われた。  着替えの済んだ彼を見て、ウララは唇の下に指を当てがい「なんというか」と、ボヤいた。 「悠飛さんが着ると輩ですね。背丈が同じなので合うと思ったのですが」 「ちょっとキツい。俺の方が背ェ高ぇから」 腕をダバダバ動かし肩の回りが若干動かしづらいことをアピールすると、「誤差の範囲でしょう」「図体だけ無駄に大きいんですから」「私服持っていなさそう」と悪口を言われ、結局「裸のまま外に出て捕まるか」或いは「別のシャツを着るか」の選択を迫られ、象牙色の開襟シャツを拝借した。シャツは所謂「オーバーサイズ」だったが悠飛にはぴったりだった。  ウララは「返さなくて結構」と断った上で、 「制服の替えも渡そうと思ったのですがどうやらサイズ違いのようですし、貴方の制服はクリーニングに出すので日曜の夜、取りに来てください」 「夜?」 「ええ。十九時に地下二階のロビーで会いましょう。道順と合言葉はご存知ですよね?」 昨日の晩を思い出させた。  覚えている、と悠飛は頷いたが、ロビーでクラスメイトの死体を見たときに感じた疑念がまた浮かび上がってきた。冴えない表情の彼を見て、 「どうしました?」 「そういやお前、俺が来るのわかってたよな?受付にジジイがいたけど止められないんで可笑しいと思ったんだ…お前、俺を待ってたろ?」 「はい。きっと来てくださると思って」 「はあ」 「下手くそな尾行も気づいてましたよ。貴方ってば人より背が高いのに平気で同じ車両に乗るんですから、バレッバレで…ああ、帰るときはエレベーター使えませんからね。一方通行なんです、あれ。」 自然な流れで帰宅を促された。  地上に戻るための非常階段までは一緒に行き、「それではお元気で」と和かに手を振られた。  階段は黒鉄が剥き出しになっており、歩くたびにコーン、コーン…と足音が響いた。一階までの直通で、上がり切ったところの扉を開くと薄明かりに神経が焼かれた。お麩が味噌汁の中で花開いていくように、暗闇に鳴らされた体がじわじわと光を吸い込むのだ。  路地裏から表の通りに出ると、一層強い日差しが網膜を刺し、唸り声を上げて俯いた。人の往来が彼をよけて行く。  彼ら彼女らはどこへ向かうのだろう。少なくとも悠飛の所持金で入れる店は無さそうだった。しかし昨日の昼から何も食べておらず、紅茶ぐらいは飲めるだろうと付近のカフェに入った。
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