悪霊

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 ガラスケースに並んだ宝石のようなお菓子たち。ウェイン・ティーボーの絵から抜け出してきたのであろう、パステルカラーのスポンジケーキや砂糖づけのサクランボがのったプリン・アラモード、アンジェリカに彩られたババロア、雪のようなポルボローネ……、悠飛は腰を屈めてそれらを眺めた。  定期入れ兼財布にはしおしおの千円札が一枚と、自販機の下を漁ったら出てきそうな僅かばかりの小銭がレシートと共にしまってある。顰めっ面で壁掛けのドリンクメニューを見てみると、驚いたことに、紅茶の最低額が980円(税抜)だった。掌の上で筆算をし税込の値段を計算すると、まあ千円を超える。  腕組みをして眉間の皺を深くした。  一応ではあるが、千円を払えば苦いカラメルソースのプリンは買える。だが盛り塩よりも小さなプリンだ。 「悩んじゃいますよねえ」 やけに大きな独り言だと、彼はハッとして隣の男を見た。 「前来たときはプリン・アラモード食べたんですよ」 「プリン…アラモード…」 「食べたことあります?よければご馳走しましょうか?」 男は恥ずかしげに頭を掻き、女ばかりの店内を見渡した。 「お仲間が欲しいなあ、なーんて」 悠飛は二つ返事で快諾した。  店の二階、通りに面した二人掛けの席。そこに男と悠飛は向き合って座った。スイーツだけではなく紅茶も奢ってもらって、学生さん?ウン。学校は?休み。今日はほんとに幸運だ、間違いねえ——と、頷く。  悠飛の目に聖人と映るこの男は二十代後半から四十代前半ぐらいの、あまり印象に残らない見た目だった。柔和な物腰からは歳の積み重ねを感じるが、肌艶は良く、短く切り揃えられた短髪も黒々としていて若々しい。細身のスーツもよく似合っている……と、悠飛は燻んだ視線を男に浴びせた。 「ん?」 「仕事は?スーツ…」 「休憩時間なんだ。ここの近くで働いてるんだよ。君は…ひょっとするとθθθθ高校?」 「そう。どうして…」 「今朝θθθθ高校に爆破予告があったってニュースやってたから。休校になったらしいしそうかなーって」 「うん」 砂糖に浸されてふよふよになったフルーツを食べながら、内心驚きを隠せずにいた。瞳を頭の方に遣って、新しく来たコミュ英の担任は生き延びただろうかと心配する。  男がカラカラと笑った。 「平気だよ。実際爆発なんてしないから」 思ったことが口に出ていたらしい。悠飛は、じゃあ良かった、と口角を上げてプリンを食べた。  他のテーブルに柘榴のタルトを運んでいたウエイトレスが何かに躓き転んだ。床にタルトがぶち撒けられて、そのカスが悠飛の靴についた。ウエイトレスは失礼致しましたとフロアの客達に言い、割れ物やタルトの残骸を集め出した。誰も彼女を責める人などいない。  男は「それにしても」と腕を組んだ。 「春は頭のおかしな人が増えて困りますよねえ。どうして春なんでしょうね?辛い冬の寒さから暖かさにつられて頭のおかしな人も出てきちゃうんですかね?春は死も生も混じり合う季節だから色んな人が集まっちゃうんでしょうね。死に喜びを見出す人、死を創り出す人、だからといって生の喜びを奪っていいことにはならないんですけど。人間って怖いなあ、訳がわからないっていうのがいちばん怖い。爆破予告する人間の心理が知れない、たとえ心で思ったとしてもそれを実行する理性の無さと思い切りが怖いんですよ。被害を受ける君たちみたいな子に制御なんて出来ないから。制御できない理不尽な恐怖という意味では悪霊の方が怖いけど。ドストエフスキーの『悪霊』読んだことある?」 「なに?無い。わからない」 「悪霊っていうのは人間に乗り移ってその人を滅ぼしちゃうんだ。いや、その人だけじゃない、恐怖は伝染するんだよ。恐怖に中てられた人たちは皆死ぬんだ。生贄として?その人達が死ねば悪霊は消えるとでも?違う、無駄だ。人は一人じゃないからね、いい意味でも悪い意味でも本当に孤独な人なんかいないんだよ。例えその人に家族や恋人がいなくても清掃業者や葬儀屋が関わってくるだろ?死に触れた者がまた新たな恐怖に触れる、そうやって悪霊は生き続けるんだよ。プリン美味しいかい?」 「ん?ああ、うまい」 「じゃあ本質的にどうやって悪霊から逃れるかってことだけど、例えばここに殺人鬼がいたとして、私か君、どちらかを殺すって言うんだ。一人を殺せば残った方はどうもしない約束だよ。殺人鬼の口約束なんて信じられないかもしれないけど『ソウ』って映画を知ってるなら想像してほしい、あの映画じゃ生に対する執着心をアピールする必要があるんだ、逆にデスゲームの主催者はそれを見ているわけだから挑戦者を騙して生存する方法を無くしたり生存する可能性を奪っちゃいけないんだ。もしそうしたら逆にゲームを仕掛けた方が残虐な方法で殺されちゃうからね。で、その殺人鬼っていうのも似たような状況に置かれてて私達に嘘をつけないんです。彼は、彼女でも良いんですけど兎に角私たちのどちらかを殺します。私を殺したとするでしょう、そしたら君はどう?死ぬほど安心するだろう?つまりね、悪霊から逃れるためには、恐怖から逃れるためには自分以外の誰かが死んで、ああ自分じゃなかった良かったっていう物理的な安心感を得る必要があるんですよ」 そのとき店の外で悲鳴が聞こえた。女の声は、殺される、と叫んでいたようにも聞こえたが、正確には聞き取れなかった。  窓から外の様子を見てみるが、道行く人も車の流れも何ら変わったところはなかった。女は無数にいるし、その誰もが死とは無縁に生きている。  悠飛は首を傾げた。 「今悲鳴が…」 「悲鳴なんてそこら中で聞こえますよ。それより君、ここの代金は私が持った」 男は銀色のスプーンを指の間でクラクラと揺らし、窓の中の悠飛に説いた。 「私には悪霊が憑いている。今、それを君に移した。」 「なんだって?」 「君にはもうすぐ解るだろう。私にはもう解らない、見えなくなった、あのいつも側にいて私の精神を蝕んでいた恐ろしい死が、見えなくなった!」 言いながら男はニタニタと笑って、晴れやかな調子で席を立った。  そのままフラッシュモブでも始めそうな雰囲気だったが、店の誰も男について行く者はいない。ただ彼だけが幸せそうだった。 「君も悪霊に殺されたくなければ誰かに話すんだ。心の内の恐怖を。そして移したまえ。私は解放された!ありがとう、君」 颯爽と去って行く男の隣に、同じような笑顔の「何か」が立っていた。 「よい休日を」 「何か」は男と入れ違いで悠飛の方に近づいて来た。  顔に逆三角形の穴を開けたような歪な笑顔、歯は朱色に汚れている。灰色の皮膚はひっくり返った蛙の腹を彷彿とさせた。黒い髪とスーツはピッタリと身体に張りついており人の皮を被せたマネキンに見える。それは悠飛の真横に立ち、彼が椅子ごと後退りすると突然顎を落として、縦に割れた口から黒い液体を吐いた。  叫び声は上げなかったものの頬を張られたような衝撃が走り、瞬きをした隙に「何か」は消えた。  心臓がバクバクと脈を打っている。どうしたことか彼もそのままプリンを食べ始め、スプーンに映った「何か」の姿に目を見開き、苦虫を潰したような顔をした。無視することもできただろうが、苦々しげに後ろを振り向き、先程とは打って変わって顔を変えた「それ」を見る。 「いない?」 しかし背後には別の客がいるだけだった。中年女は悠飛と目が合い、あせあせと俯く。  そんな馬鹿な、と店内を見渡した。  だが、観葉植物と壁の間に挟まっている「何か」を見つけ、顔面に空いた無数の穴と耳の辺りから生えた虫の薄い羽に鳥肌を立たせた。
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