悪霊

3/5
前へ
/41ページ
次へ
 エレベーターが開き、中で悠飛が尻餅をついているのを見てウララは顔を顰めた。チーンと音がして、彼は産まれたての蜘蛛のようにジタバタと這い出て来たが、あまりの錯乱っぷりに彼は後退りしてしまった。 「なんです?どうかしたんですか?」 「そうだな、そうだといい。俺がおかしくなったんなら…」 エレベーターの扉に描かれた魚眼の絵を充血した目で見つめている。黙って頬肉を捏ねる手に包帯が巻かれていて、新鮮な血が布を汚していた。 「手も…」 患部に触れようとすると背中の後ろに隠されてしまい、ウララはムッとしつつ困惑して、取り敢えずとクリーニングに出していた制服を返した。それを悠飛は反対の手でとった。  口をつぐみ、再度「大丈夫ですか?」と青ざめた顔を覗き込む。目の下には土色の隈ができていて、その窶れ様は末期の癌患者を思わせた。 「祟りだ」 と彼は消え入りそうな声で呟き、色褪せた髪を掻きむしった。顔を覆う手の隙間から長い溜め息が漏れる。  『祟り』と聞いて、ウララは馬鹿にするのではなく眉間に皺を寄せた。 「まさか貴方も…」 「貴方も?」 「悲鳴を聞いたんですね?」 「悲鳴?」 鸚鵡返しにしていた声が裏返る。不満げに歪められた顔が、「ああ、悲鳴な」と言って力無きものに変わった。 「女のだろ?結局…事件かなんかか?」 「ええ、それはもう」 ウララは声を潜めて彼に打ち明けた。 「殺されたんですよ、《孕まない女》が」 無反応な彼に別の言葉で言って聞かせる。 「ффффの伴侶が殺されたんです」 そう言うことで彼は頷き、つまり、「神は死んだって?」と、冷たい笑みを浮かべた。 「それじゃあ呪われても仕方ない」 「でも呪いったって貴方だけですよ。皆は寧ろ女を殺した方に呪いがいくと信じていますし、だから私も…」 肩を竦めるウララに、「じゃあ神殺しと会ったかもしれない」と言うと、彼は息を呑んで今までと違う食いつきを見せた。  両肩を鷲掴みにされ、「どういうことです?どこで会ったんですか」と問い詰められた。彼はケーキ屋で会った男の身なりを伝えたが、それ以上は言い澱んだ。歯切れの悪い彼にウララが舌打ちをする。 「私に言えないんですか?まさかソイツを庇ってるんですか?」 「いや、そんなんじゃ…」 「面倒です。早く言いなさい!」 小声に熱が篭もる。嫌いな食べ物を前にしたような顰めっ面で首を曲げ、ウララの追及を逃れるべく部屋の片隅を見た。  その瞬間に顔が引き攣る。部屋の四方に異形と化した「何か」が佇んでいた。顔の下半分がバターのようにどろりと溶けて白い液体を垂れ流している。  何度か瞬きをするとそれらは姿を消し、ウララの自分を呼ぶ声も聞こえるようになった。だが全く返事をしないので容赦なく頬を張られた。痛みが彼に自我を取り戻させる。ウララは彼の胸ぐらを掴んでいたが、 「お前には言えないんだよ!」 と、手を振り解いて部屋の奥に逃げ込んだ。  扉を開け放った先は真っ白で、巨大な魚の頭部の下には紅一点、クラスメイトの下半身が吊るされたままだった。う、う、と喉奥で嗚咽が漏れる。悠飛は血の滲んだ包帯を唇にあて、込み上げてくる悔恨や恐れ、焦りなどを、 「アイツらの報いだ。魚の呪いなんかじゃない、だって俺は、俺は捧げたのに…」 ブツブツ独り言を呟くことで抑え込んだ。  腕に何かが這い、短い悲鳴を上げる。しかしウララに捕まれたときの引っ掻き傷から血が流れているだけだった。  後ろを振り向くと暗いエレベーターホールにウララが見える。赤い魚の絨毯の上で「悠飛さん!」と声を張った。もしも目の前で子供が首を吊るとなったら、その母親はこんな声を出すんだろうなと思った。しかし彼は、ウララの背後に立つ「何か」から逃げた。  コーン、コーン……  非常階段を上っているとき、彼が一段上がるたび、後ろには「何か」が増えていった。彼の動きをコマ送りにしたら恐らく同じような光景が見られるだろう。ハア、ハア、と自分の口から吐かれる息と暗闇を満たす生臭い空気が混じり合う。彼は真夏のゴミ捨て場を思い浮かべた。ゴミ袋を突き破って地面にこぼれた残飯と、それをつつこうとして轢かれた烏の死骸。黄色く焼けた空。林の向こうに黒い煙が上っている。煙と並んで森の彼方に細く聳え立つ黒い塔を見ようとすると、空から雨のように降ってくる、或いは天に昇ろうとする「何か」に行手を阻まれ夢想はそこで終わってしまう。  しかし意識を現実に切り替えたところで「何か」の恐怖からは逃れられない。「何か」に背後をとられるのが嫌で家中の鏡を割ってしまったし、外から監視されていると騒ぎ立て、窓に制服を吊り下げて陽の光ごと遮断した。日がな一日布団にくるまり、精神の疲れから気絶している間も「何か」に殺される悪夢を見て苦しみ、起きると今度は布団を捲った時の恐怖に苛まれた。「何か」がずっと床に寝そべり自分が起きるのを待っていて、布団を捲った瞬間ザクロみたいに弾けたぶつぶつの悍ましい顔があったら、触覚に額を撫でられたら、足首を掴まれて布団から引き摺り出されたら、家中の壁に張りついてカサコソと動き回っていたら、自分の肉を齧っていたら、知らぬ間に口から侵入して内臓に卵を植えつけていたら——そんなことばかりを考えてトイレにも行けず、何も食べていないので透明に近い色の尿を敷布団に染み込ませた。それを惨めだとか不潔だとか思う余裕すらなかった。  しかしアンモニア臭に耐え兼ねて布団を捲り、何もいない、と安堵した矢先、浴室の扉の僅かな隙間から顔に穴の空いた「何か」がジッと見つめているのに気づいたとき、彼は後ろに転んで頭を棚にぶつけ、暫く意識を失っていた。それからずっと起きていよう、そうするしかないと追い詰められた彼は今日まで裸で部屋の隅に体育座りをして、頭の瘤を摩りながら過ごしてきた。  現実的な痛みは殆ど解消されたものの、恐怖は最早日常の一部となりつつある。  背中に視線を感じ、頭の中でモーター音に似た不快な音が鳴り出す。脳味噌を、ぬるま湯に浸したタオルで締めつけられているようだ。汗がじわじわと肌を濡らし、手すりを掴む手が滑った。  アッと言って彼は転び、脛を思い切り打ちつけた。自分の呻き声が空間に響く。奥歯を噛み潰すほどの痛みに血の気が引いた。  恐る恐る傷を見ると、足首を掴む「何か」と目が合った。トンボや蚊が持つ「複眼」に似た、ぶつぶつの、吹き出物まみれの悍ましい両目に絶句して、眉や口角をぐっと下げると深い溜め息を吐いた。目を瞑り、首を左右に振る。  悠飛は憔悴しきっていた。
/41ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加