悪霊

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 痛む左脚を引き摺り、やけに人通りの少ない道をガードレールや壁に頼りながらとぼとぼと歩く。静けさの中に自身の荒い吐息が際立っていた。  いつどこで「何か」が現れるのか、暗闇に目を凝らし些細な音にも注意を払う。二日もまともに寝ていない悠飛は眠さと極度の緊張に晒され、神経が体表に飛び出したような状態だった。つまりあらゆる刺激に敏感で、街灯に照らし出された樹木の影が揺れただけでも勢いよく後ろを振り返り、また、前を向くときは歯を抜かれる子供のように汗を垂らして怯えるのだ。  住宅街に入り、長い一本道を通る際、数十メートル先に「何か」が立っていた。彼が道を引き返そうとすると踵で「何か」を蹴っ飛ばし、エ、と言って見てみると、それは人の生首だった。生皮を剥がされ花瓶代わりに花を生けられた首が電柱に向かって飛んでいく。一瞬時が止まり、遂に彼は絶叫した。サイレンのようだった。  充血した目を擦り、千鳥足で近くの壁に倒れ込む。選挙ポスターのお陰で顔を摺り下ろさずに済んだ一方、知らない政治家とキスをした。うわ言を並べ立てながら目の粘膜を必死で擦っていると突然肩を叩かれた。 「ううう!」 彼は四つん這いで逃げようとする。  それを、 「ま、待ちなさい君」 男の声が宥めた。 「さっき叫んでいたのは君か?大丈夫か?なんか袋落ちてるけど…中は制服か。君のだね?これ?」 「ううう…」 「何があったの?立てる?」 「嫌だ、嫌だ…」 「ああ…大丈夫だよ、ほら、お巡りさん来たから。近くにも誰もいない」 「いる、いるんだ」 「何がいるの?」 「何が?」 悠飛は言葉に詰まった。  薄目を開けると一寸先に「何か」がいて、血だらけの歯で笑っている。呻き声を上げ、咄嗟に目を閉じると警官の腕に額をこすりつけた。警官は驚いたが、彼の両腕を掴んで「落ち着きなさい」と声をかけた。  「何か」の入れる隙間が無ければ目の前に現れることもあるまい、という悠飛の考えは功を奏し、再び目を開けた先には警官の制服の青い布地が広がっていた。少し落ち着き、過呼吸をなんとか治めようと深く息を吸って、吐いて、吸って、吐いて、項垂れた。 「何があったか、知りたいか」 話せば警官は呪われるだろう。その代わり、自分は恐怖から解放される。  そんなことを知る由も無い警官は、 「ありがとう。ちょっとずつでも良いから教えてくれると有り難いな」 と、無垢な正義で応える。  悠飛は震える体で溜め息をついた。 「このまま聞いてくるか?」 「うん。大丈夫だよ」 「…俺は何かに追われてる。もう三日だ。全然寝てない。日に日に恐怖が大きくなっていく。何かはどこまでも、いつでも着いて来て、俺を監視して、俺を恐怖に陥れて狂わせようとする。なんでそんなことするのかは解らねえ、呪いってのはそんなもんなのかもしれない。理不尽で、理解不能で、受け入れられないからこそただ怖い。どうにもできない。俺はこのままじゃ……殺される。最悪の恐怖に最悪な殺され方をする、って、どうしようもなく思えてくるんだ。でもきっとそれは恐怖じゃない、そうなるしかないって心のどこかで確信してる。親から借りた時計を道端に落として、後で絶対に殴られるってビクビクしながら待つ餓鬼みたいに…目が見えなくなるまで殴られるのをただ待つしかねえ餓鬼みたいに、不安で、不安で…アンタが助けに来てくれなきゃ、たぶんあそこに転がってる生首とおんなじ風になってただろう」 警官は彼の指差す先を見てみた。 「ありがとう。俺は悪霊に憑かれてた。今、アンタに、それを移した。悪い。でもアンタが助けてくれるって言うから、俺は…俺は…」 警官の腕からそっと離れる。蛞蝓のような青ざめた顔で見上げると、警官は丸くした目で「何か」を凝視していた。  悠飛にはもう何も見えない。「許してくれ」と言う声は蚊の鳴き声より小さかった。 「いや…」 警官が視線を動かさぬまま首を振る。 「ありがとう、話してくれて」 「へ?」 「いや、大丈夫だ」 肩の力を抜き、ふっと市民を安心させるための笑顔をつくる。だが、気味の悪さに慄いてしまった悠飛はヨロヨロと立ち上がり、「大丈夫って?」と顔を顰めた。  警官は片膝立ちを崩さず、 「悪霊だよ。君の言う…なんともないってこと」 「え?そんな…見えてはいるんだろ?」 「確かにね。だってそこに」 太い指が虚空を指差す。 「ふざけた奴だ」 声を低くし、「何か」を罵る。警官の目に悪を憎悪し蔑む、暗い光が宿った。 「君もあんな奴に負けちゃいけないよ。そもそも俺達は生きてるってだけで素晴らしく、讃えられるべきなんだから自信を持って生きてやらなきゃ。百パーセント悪いのは向こうなんだけどね。君は悪くない。君は悪くない、悪いのは生きている人間様に楯突こうとする死に損ないだ。お前だよ。そう、俺たちが見えてるんだろ?聞こえてるんだろ?散々彼を追い回したんだ、俺にだってそうするつもりだったんだろ?じゃあ逃げるなよ、俺は逃げない。何からも。糞ったれた毎日を死ぬ気で生きてるんだ、苦痛を味わい続けてるんだ、俺たちはお前の何千倍も辛い思いをしてるんだよ、お前が何をしたいのかはしらないがテメエの恨みつらみで今生きてる奴を邪魔するな。誰なんだテメエは。俺がお前に何かしたってのか?いいか?聞けよ。お前の理不尽が許されるなら俺だって仮にテメエに祟り殺されたとしてあの世に行ったらお前と同じ幽霊にでも怨霊にでもなってテメエの魂を、生きた尊厳も唯一残された許せるものでもなんでも打ち砕いて二度と戻らない残骸にぶっ殺してやるからな。絶対に殺すからな。こっちはひとの怖がるとことか見たかねえんだよどうでもいいんだよ暇な味噌っ滓のテメエらとは違って。後悔しろ、今を必死に生きてる奴らの命を奪って邪魔して泣かせたことを、俺は死んでもテメエを許さない。お前に殺されなくたってお前を二度殺しに行く。お前の嫌がる最悪の方法でお前を殺す。死が最悪の手段じゃないなら別の方法を取ったっていい。生前のお前が何で苦しんだかは知らんがそれを超える苦痛を与えてやる、お前が、お前が悪いんだからな。正当に裁かれるべきだ。解るな?テメエが俺から逃れる方法は一つしかない。自殺しろ」 立ち上がった警察官は「何か」を指差し、強いて怒りを封じ込めた声音で命令した。  街灯に群がっていた蛾がふとした拍子に焼け落ちた。白い光が点滅し、また夜道を明るく照らし出す。  悠飛は顰めっ面のまま彼を見上げていた。 「あ、もう平気だよ」 何と言うこともなく差し出された手を取って、警官の凝視していた虚空を見つめる。  だが、今やどこにも彼を脅かす恐怖や得体の知れない「何か」は存在しない。悠飛は白い顔で警官を見下ろし、「怒ってるよな」と目を伏せた。 「怒る?何を。俺は警官だ、市民の安全を守るのが仕事なんだから」 しかし彼は軽く笑って、彼に手提げ袋を持たせた。 「困ったときはいつでも頼っていいからね」 「うん」 「一人で帰れる?」 「うん」 「それじゃあ気をつけて」 「ありがとう」 本当は脂汗が出るほどに脚が痛んだけれど、これ以上彼に迷惑をかけることが憚られて、付け加えるなら警官の気迫に「何か」と近しい恐怖を感じたため、彼の敬礼を最後に一人で帰ることにした。  夜道は暗く、人を惑わせるような静けさがあった。不安を感じこそすれ、悠飛はぽつねんと信じることができた——ここにはもう、自分以外の誰もいなかったのだと。
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