親交

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 またある日、悠飛が英語の授業で当てられて和訳で詰まっていたところ、 「絵を描いているらしい青白い顔のその男は…」 と振り向いて答えを教えてくれた。  悪い、と、嬉しさ半分申し訳なささ半分で顔を険しくする悠飛に、ウララは「いいんですよ」と微笑みかけ、机をひとなでしていった。  だが担任かつコミュニケーション英語——所謂コミュ英担当の水澤は、 「ったく家で何してたんだよ。髪染めてる暇あんなら勉強してこいよ」 投げやりな口調で悠飛の容姿、特に否が応でも目立つ色褪せた髪を非難した。更にはそれを染色によるものだと断定したまま憶測で話を続け、 「なんかキャラクターの真似?それ?海外でオタクの奴らを何て言うと思う?ナードっつってな、ヒエラルキーの最下層にいる奴らなんだよ。俺がアメリカにいた頃なんか…」 と、留学の体験談を披露するのが癖だった。悠飛を『ナード』と決めつけバカにする一方、ウララには「いちいち教えなくていいんだよ」と金時計を付けた手で頭を撫でた。  水澤の露骨な可愛がり方に、別段悠飛を憐れんでいるわけではなく単純に「えこひいきだ」と不満を漏らす生徒もいたが、ウララ自身それをよく思っていなかった。  昼休み。  席が前後ということで悠飛とウララは共に昼食を食べていた。ウララは「今日も気持ち悪かった」と苦々しげに頭を振った。 「何です?あの薄ら馬鹿。たった一年親について行ったくらいで自慢げに話すことないでしょうが。軽々しく私に触れやがって…黴が生えます」 と、悠飛にだけ聞こえるよう悪態をついた。 「口悪いな」 彼はオニギリを食べつつ、些か驚いたように彼を見た。 「おや。貴方も何か言ったらどうです。あんなに馬鹿にされてボンヤリ座ってるものですから、こっちがムカついてきちゃいましたよ」 「まあ…別に、俺が勉強できねえのは本当だしな…アンタだってわざわざ教えてくれなくてもいい、それでベタベタ触られんなら」 「はあ。私は好きでやっているのですが」 溜め息を漏らし、マスクの下からブリックパックのストローを差し込む。  荒んだ気持ちを落ち着けるように冷たい緑茶を流し込み、ちゅぱ、とストローの先端を口から離して、 「勿論『好き』っていうのは貴方のことで、あのオヤジに触られることじゃありませんよ」 と釘を刺した。  悠飛は解ってる、と頷きつつ、首を傾げてしまった。 「どうしてそんなに構うんだ?俺も…そりゃ嬉しいけど優しすぎる、優しすぎて…」 「貴方のことを好きじゃ困りますか?」 優しい声に問いかけられ、困り顔をほてらせていると「貴方も私のこと好きでしょう」と、親指で目の下の隈を撫でていった。睫毛に指が触れ、くすぐったさに顔を顰める。  その晩彼は家へ帰り、窓際に置いた机の上にコミュ英の教科書を広げた。バイト帰りで疲労困憊であったがその熱意はウララのために捧げられた——つまり水澤に当てられたときまたウララに頼って、彼が不快な思いをしなくて済むように。  帰宅途中に古本屋で買った英和辞典を広げ、黄ばんだ薄紙を指でなぞりながらなんとか予習を済ませた。  大あくびをしてそのまま布団に倒れ込む。電気を消さねばと思ったが、星のような白熱灯に集まる羽虫の動きを見ていたら、微睡むより早く気を失ってしまい気づけば朝になっていた。  窓から見える明るんだ空を見て、最悪だ、と瞬時に遅刻を悟った。  敷布団の下に敷いて「アイロンをかけた」シャツを羽織り、学ランを持って家を飛び出した。息も絶え絶えになりながら電車に乗ったのが七時丁度。学校まで一時間半かかるため遅刻は免れなかった。ヤキモキしながらどうすることもできず、やっと座れた席で眠りそうになるのを何度も繰り返しフラフラの足取りで電車を降りると今度は勾配の激しい坂が待っている。同じく遅刻の生徒が自転車で駆けていくのを真っ白な頭で眺めた。  死体のような顔で教室の横戸を開けたのが八時四十四分。授業開始から十五分は経っていないのでギリギリ遅刻扱いにはならないはずだが、 「茜谷、欠席…と」 水澤は彼にも聞こえるように呟き、出席簿にバツを付けた。  着席した彼をウララが見て、「水でも飲んで」と自分の水筒を差し出した。 「顔蒼いですよ」 会釈をして水筒を傾けたが、中に入っているのは水ではなく自家製のフルーツティーか何かで、その野生的な味に思わず呻き声を発してしまった。 「落ち着いて」 「わ、わる、ん…」 「汗びちゃびちゃですよ、汚い。まったく」 そう言いながらも黒いハンドタオルで彼の汗を拭ってやる。 「ウララ」 水澤に指名され、「はい」と前を向いてしまうと途端に彼は熱くなった。自分の醜態が教室中の視線を集めている気がしてますます汗が噴き出た。  それだけではない。  彼は鼻下にタオルを当てながら大きく息を吸い込んだ。教師は折角予習してきたにも関わらず彼の番号を飛ばして後ろの席の生徒に当てた。しかしその人が答えられずに慌てふためくので悠飛は体を僅かに捻り、答えを教えてやった。  すると水澤が「なぜ予習をして来ない」「この学年はだらしがない」「平気で遅刻する奴はいるし」と怒鳴り散らした。悠飛に礼をしようと肩を叩きかけた後ろの生徒は竦み上がり、背筋を伸ばして座り直した。  汗が冷える。  タオルで首筋を拭い、不味いフルーツティーを飲んで脚を組んだ。机はヒンヤリとしていて気持ちがいい。水澤の吊り上がった目と目があう。小さい傷のような目だ。浅黒い肌が怒りで蒼くなっている。脂ぎって、まるでカビの生えた煮卵だ。  ふと、悠飛の中に静寂が訪れた。それは例えば小学生が美醜の概念に気づくのと丁度似ていた。水澤のオタマジャクシよりも小さいコンタクトなど一生着けられないであろう矮小な瞳に辛うじて写る「茜谷悠飛」に笑いかけ、ギャッと怒鳴られる前に教室を出た。  どこで時間を潰そうかと考え、藤のぶら下がる渡り廊下を経由し図書室に入った。司書の婆は僅かに顔を上げただけで何も言わなかった。  一時間目が終わるまで、彼は檀一雄の『母の手』を読んだ。
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