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信仰の絵画
どうやって帰ったのかは覚えていない。茜谷悠飛はその晩、月の霜が降りた冷たいシーツで幻のような記憶——ウララと談笑したことや初めて食べたオレンジピールの味——を思い出し、回想に耽って、シャベルを握った感触や土の匂いなどが全て悪い夢であったのだと納得した。
だが朝になり、制服に着替えて家を出て行こうとしたとき姿見に写った自分が死体のように真っ青で、どうしてもそこから足が動かずに自主休講を決定した。
制服を着たまま布団に潜り込み目を閉じると、僅かに弾力のある青白い岩——水澤の死体が思い浮かぶ。それと同時に硬くなった自身を撫でつける手、ぴったりと寄り添うウララの体温を思い出し、布団の中で背中を丸めた。さながらゆきずりの男に処女を奪われた生娘のようであった。
そうして倒錯的な穴掘りから二日が経った。指先の冷える花曇りである。
遅刻ギリギリで教室に行き、
「あ。悠飛さん、この前はどうして…」
教室へ戻って来たウララに後ろから話しかけられて身を竦めた。体を捩り、顰めっ面で見下ろすと彼はいささか傷ついたような、「あ…」と伸ばしかけた手を引っ込めて口をつぐんだ。
チャイムが鳴り、授業が始まる。悠飛は存在を感じさせぬよう土の中の虫のように息を殺し、手首から先だけを動かして衣擦れの音さえ立てなかった。時計の針が動く音を聴き取れてしまいそうなもったりとした静寂の中を教師の声が緩々と押し進んでいく。いったい誰が想像できようか——この中に人殺しをした者と、死体を捨てた者がいることなど。
「えーでは七番、茜谷さん。主人公の父親が持っている扇子は何の象徴だと考えられますか?」
「俺は一昨日人を埋めた…」
そう告白できたら少しでも心は晴れやかになっただろうか。
そんなことを考えている間に五十分が経過し、休憩の時間となった。いつもならウララと話さないでも前に話せる人がいるというだけで惨めな孤独感を味わわないで済んだ。しかし今はざわつく教室の中で独りぼっちなのは悠飛とウララだけなのではないかと疎外感を覚えてしまう。いや、そもそも孤独でいるのが惨めだなどと感じたのはこれが初めてだった。
悠飛は居た堪れなくなり、休憩時間のたびにトイレへ出かけた。そこで錆びついた鏡に向かい、色褪せた髪の窶れた男と鏡面越しに手を合わせ、溜め息をついた。
三時間目はコミュ英で、そのままトイレに篭っていようかと思った。個室と鏡の間を往復し、洗面台に手をついて項垂れていると雨を吸った土のにおい、廃棄物と化した水澤の死骸、脚の間を這うウララの手の感触が思い出されて身震いした。
教室に戻ると知らない教師が立っていて、水澤の代わりだというその教師は見た目のいかつさに反して仁徳者だった。授業のはじめに『諸事情があり水澤先生は退職されたので』自分がコミュ英を担当する旨を話し(生徒たちは「捕まったんだろ」「お星様になった」と好き勝手に言っていた)、それから普通に教科書を開いた。内容に関する英作文を書くとき、皆が電子辞書や紙の辞書を持っているのに悠飛が何もないまま頭を抱えていると、「大丈夫?」と声をかけ、モゴモゴ何かを言っている日本語すら怪しい生徒に逐一文法やら語彙を教えてくれた。
四時間目の前、ウララは隣の席の男子と話していた。男子が「つぶあんぱん」の一つをあげようとして、彼は断っていた。それを見ながら悠飛は耳にイヤホンをはめ、眠たくもないのに机に伏せた。
昼休み。
何も食べずに伏せっていた。
しかし尿意が訪れたのでトイレに行った。ウララの席は空いていた。
ドアを開けると鏡の前にウララがいた。顔に触れ、目尻の皮膚を伸ばし、鏡の中にある熟しすぎたマンゴーのような目をじっと見つめていた。それが済むと入れ違いに出て行こうとした。
しかし突然踵を返すと悠飛の肩を掴み、驚く彼を突き飛ばした。彼はよろめきながら個室のドアを突き破り便座に尻餅をついた。ウララはそこへ押し入り後ろ手に鍵を閉めて、彼の上に跨った。マンゴーの目がどろどろと輝いている。
「やめろ」
「何をです?」
「その…」
「ちゃんと喋りなさい」
ヌッと伸びてきた手が頬を引っ叩くのかと思いきや、顔の横の髪をかき上げ固い耳朶に引っ掛けた。
心臓がすくみ上がったり動きを緩慢にしたりと忙しなく、仄かな痛みが胸を締める。
「俺は…」
「怖がる必要はありませんよ。貴方はきっと慎重な方なんですね、私てっきり顔がいいだけの陰気な馬鹿だと思ってました。でもちゃんと話せば解るはずです。一緒に不安も恐れも消していきましょう?ね?」
頭を抱かれ、顔を胸が圧迫する。う、と言ってなんとか息を吸おうとするとウララのものだろう、汗に混じってしめやかな匂いがした。雨上がりの熱気に似ていた。
温かい——悠飛は彼の鼓動を聞いて、ぬるま湯に顔を浸すような、泣きじゃくった後に突然訪れるような抗い難い眠気に襲われた。
「ウララ…」
蓋し彼の胸には安堵と歓喜があったのだ。心臓に泥を詰める恐ろしい不安がぽたぽたと溶けていって、『話せば解る』と言われた通り、自分達が修復可能であるかのように思われた。
悠飛がウララの背中に腕を回すと、ウララは頭を撫でてくれた。
「ウララ、俺は…」
「ええ。ゆっくりでいいんですよ」
神父のような柔らかい声音に彼は活路を見出していた。つまり、ウララが水澤を殺害した事実よりも記憶に在る“悠飛にとってのウララ”を証拠として挙げ、
「俺は普通に生きたい。今まで通りお前と飯食って、話して、授業受けて…それで十分だ。特別なことなんか…俺はもう、お前とは、関係を築けてるつもりだった…他の奴らには無い…」
「そうは言っても埋めてしまったものは埋めてしまったのだし貴方の言う『普通』には戻れませんよ?」
甘い幻想はすぐに砕かれ酷薄な現実で上書きされる。更にウララはぐうと唸る彼の髪に顔を埋め、
「それとも水澤を埋めたのは無かったことにして『普通』の生活を送ろうと考えていましたか?残念ながらそうはいきません。私の目的は水澤を殺すことではなく儀式を終えることですから。そしてその暁には尋常でない歓喜を得られると言っているのです。なのにどうしてわざわざ『普通』であろうとするのですか?行くところまで一緒に行ったって今まで通りご飯を食べたりお話をしたり授業を受けたりできるんですから、後戻りが出来ない以上『普通』ではなく歓びを手に入れましょうよ。ね?」
髪にキスを落とし、何か言いかけた彼の口へまたしても胸を押しつけ黙らせる。ガシガシと頭を撫でてやり、「解ってますよ」と寛大な理解を示した。
「解ってます。貴方は人殺しやそういう行為を非道と捉え、法律上犯罪行為と呼べるそれらの上に成り立つ歓びなど些細なきっかけで瓦解しとんでもない報いを受けることになると恐れているわけですよね。牢屋に閉じ込められたり社会的に死んだりすることを“死”以上に恐れているわけですよね。大丈夫ですよ。例えそうなったとしても私は貴方を見捨てません。しかし貴方が私の言うことを聞けないのであれば、どうぞ孤独に生きてください。歓びを拒否する清貧な心だけを持って、道で野垂れ死ぬのが良いでしょう」
悠飛さん、と、彼のこめかみに触れ、指の間で耳たぶの感触を確かめる。
彼は「脅しか」と呟き、おどけた調子で何かを言おうとするウララの襟首を掴んだ。
「わ、」
そしてソファから猫を引き剥がすのと同じ要領で自分の上から退かし、驚いて、便器とドアの隙間で女座りをしたまま腰を抜かしているウララに、
「好きにしろ…言いたければ言えばいい。こんなはずじゃなかった、こんなはずじゃ…」
と嘆きを聞かせながら個室を出て行った。
石造りの廊下が果てしなく長く見えた。
昼休みが終わり、雨が降ってきて、古い木造の教室は蒸し暑くなった。男しかいないので空気が黄色く澱んでいるようなそんな気さえした。
退屈な五時間目が終わり六時間目を待つまでの間、悠飛は鬱々と自分の世界に篭っていた。もしかすると別の世界に助けを求めていたのかもしれない。イヤホンをして、図書館で借りた『掟の問題』を読み耽り、丁度ゲオルクが死んだのを目にしたところで誰かに肩を叩かれた。
一瞬心臓が凍りつき、恐る恐る顔を上げると眼鏡の男が立っていた。ウララではない、ウララであるはずがなかったこんな男が。
これはクラス委員の男だ。
イヤホンを外すようジェスチャーをし、
「クラスライン作ってるんだけど、茜谷だけ入ってないんだよね」
と、彼はスマートフォンを差し出した。ラインを交換しようと言っているのだが悠飛にはその意味がわからなかった。
「携帯無えから」
「マジ?あ、そう」
委員の男は悠飛が携帯を家に忘れたのか、或いはお前らなんかとラインするかよ、と暗に意味しているのかどちらかだと思ってスマホをポケットにしまった。
「何か連絡あったら教えるわ」
そのまま立ち去るのかと思いきや、
「カフカ?」
と、本を指差し、勝手に表紙を覗き込んだ。
頷く彼に「意外だわ」と言って笑いかけ、
「『流刑地にて』好き」
たまたま読んだことのある一冊を口に出すと彼の嬉しそうな微笑を勝ち得ることができた。恐らく男は、あ、別に俺たちとラインすんのを毛嫌いしてるわけじゃないんだな、コイツは単に文明が嫌いなんだ、と安心することができただろう。
そしてチャイムと同時に別れた。
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