信仰の絵画

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 生徒たちが他愛のない会話をしている。  お前の親来る?来るってよ。お前んとこは?家族総出で観に来るらしい。  ——体育祭が近づいていた。  これに合わせて体育の授業は棒倒しの練習に変わる。放課後は部対抗リレーの予選が行われ、今年はサッカー部が落ち、代わりに出場するバレー部へ注目が集まっていた。本選への出場が決まった部の生徒は昼休みも練習に出かけており、教室はいつもより静かである。そして教室に残った者は体育祭に無縁の集まりであるから尚一層静まり返っている。  悠飛は教室で音楽を聴き、片手をポケットに本を読んでいた。時たま顔を上げて眼前の空席を眺める。というのもウララは組対抗選抜リレーの選手で、晴天のもと校庭へ走りに出かけていた。  予鈴が鳴り、教室に戻って来たウララは、 「焼けたかもしれない」 などと言って熱くなった肌を周りの男子に触らせていた。  制汗剤の匂いが漂う。  同じく組対抗リレーの選手であろう男子がウララの机の隣に立ち、彼の髪に鼻先を触れさせた。「なんでそんなに汗かかねえの」「なんかイイ匂いする」と幼さの滲む笑みを浮かべ、明日も練習に来るかどうかを尋ねた。ウララは不思議そうに「勿論、行きますよ」と目で笑ってみせた。それが意外だったのか男子は本当かと聞き返し、太陽に向かって咲く向日葵のように顔を綻ばせた。  そして本鈴が鳴り自分の席へ戻る際に悠飛を一瞥して去ろうとすると、丁度彼の薄暗い瞳と目があって、ニコニコと緩んでいた頬を強ばらせた。    ❇︎  学校で友達のいない人間が体育の時間をどう過ごすか、そもそも友達のいる人間は自分達の話に熱中していて彼らの孤独には気づくまい。だから彼らにとって友達のいない人間というのは、“いつの間にかいる”のである。気づけば部屋の隅に溜まっている埃と同じだ。いつ着替えて、整列している合間に何をしていて、それって暇じゃないのか、惨めじゃないのか?などと疑問は尽きぬが知る由もない。敢えて聞くほど興味も無ければ残酷な心も持っていない。  ただ悠飛は自分を見つめる視線に気がついていた。誰とも話さず口内を乾かしている彼に付き纏う視線——組対抗リレーの男子は後ろを振り向き、だだっ広い校庭の一体どこを見つめているのか独りで歩いている悠飛を見つけ、ウララに何かを耳打ちした。  体育は棒倒しの特訓と持久走を行い、三千秒を一、二…と寸分狂わず数え上げるような五十分間が終わった。  大して汗もかかぬまま、さっさと教室に帰って来ると机に水筒が置いてあった。黒いそれにはいつも渋い味のフルーツティーが入っている、ウララの物だ。  退かそうとすると着替えから戻ってきたウララが組対抗リレーの男と談笑しつつ、何ということもなく水筒を取り、席について、また話し始めた。  このとき悠飛の机は誰かの所有部でもなければ机でもなく、ただの物置きに過ぎなかった。彼は“物置”に座り、水を飲んだ。  リレーの男はスポーツドリンクを持っており、ウララがそれを「ひと口ください」と、ねだった。彼は自分の水筒を飲み終えてしまったからと言ったが、悠飛にはその嘘が分からぬはずがなかった。  いいけど、と男が笑う——お前がマスク外すの初めて見るわ。 「そうでしたっけ?」 人差し指をマスクの縁にかける。 「ちょっと恥ずかしいですね」 「いいよ、見せろよ」 「見せろって、ただの顔ですよ」 「見てみたい」 「やっぱり…ううん、遠慮しておきます」 「何でだよ、とれって」 スポーツドリンクを返そうとした彼の腕を掴み、もう片方の手でマスクを外そうとする。ウララは戯れて、笑いながら「ほら」と言って隠れていた顔の半分を見せた。  歯を見せずに、桜色の唇がフフと微笑む。  だが悠飛は知っている。閉ざされた唇のその奥、甘言を吐くその舌には呪いの刻印が施されていることを。  どうでもよさそうに溜め息を吐き、古典の課題をやり始めた彼に凍てついた視線が注がれたことも、また彼の知るところであった。    ❇︎  美術選択で絵画を選んだ悠飛は黙々とデッサンを終え、キャンバスに七面鳥、乾燥檸檬、フルーツの入ったボウルを描いたところで色を乗せるとそれらが崩壊し、台無しになる未来を悟っていた。  授業が終わり教室に戻って来てもやることと言えばホームルームぐらいで、新しく担任になった(いか)つい顔のコミュ英の教師が連絡事項と保護者への手紙を配るだけだ。いなくても怒られやしないだろう、そう踏んだ彼は鞄を持って帰ってしまおうと考えた。  だが彼の席には組対抗リレーの男が腰掛けており、音楽選択の仲間と『くちびるに歌を』を歌っていた。音楽選択の生徒が授業後も歌い続けるのは珍しい現象ではなくそれ自体は見慣れた光景だったので、彼も構わずにリュックを取ろうとした。  すると、 「あれ、帰るの?ホームルームあるよ」 と、リレーの男が言い、初めて至近距離で顔を合わせた彼は顔のパーツの大きさや位置、大体の比率などを把握し、事もなげに無視をした。  けれども意外だったのは、教室から出た行った彼をわざわざ追いかけて来て「待って!俺も行く!」とついて来たことだ。勿論一緒に帰る約束などしていなかったので、彼は待たずにさっさと歩き出した。イヤホンから流れるのはレディオヘッドの『クリープ』だ。それも耳から無理矢理イヤホンを抜かれたことで、サビの“But I’m creep”を聴くことができなかった。  彼らは中央階段の踊り場で対峙することとなった。正面の窓から差し込む黄色い陽射しが逆光となり、男を青黒い影に閉じ込めた。 「あ、悪い」 彼の険しい顔を見てイヤホンを返そうとしたがその前にひったくられ、更に彼が歩き出して頑なに男を相手にしようとしないため、 「逃げんのか!」 と、罵声を浴びせかけた。  ぎこちなく足を止め、ゆっくりと振り向いた彼に「根暗野郎」と震える声で呟く。人を馬鹿にするのが楽しすぎて笑っているのか怒りのあまり泣いているのか、影からは判別できなかったものの、 「死ねよブス」 結局男が初めて貰った言葉は心臓に直接ナイフを植えつけるような、あからさま過ぎる暴言だった。愕然として押し黙ってしまった男に彼は首を傾げ、 「おい、何の用か言えよ。喋れよチビ」 と、苛立ちを露わにして畳み掛けた。  『チビ』と言われて黙っていられなくなったのか、男は再び口を開いた。 「なめてんのかお前」 「喧嘩したいのか?俺と」 「喧嘩?誰がお前なんかと…喧嘩って、馬鹿か。ウララに少し気に入られてたくらいで調子に乗るなよ。アイツはお前のこと、可哀想としか思ってねえの、分かってる?自惚れんのもいい加減にしろよ…」 「ウララが言ってたのか?俺を可哀想だって」 悠飛は木造の手摺に体重をかけ、 「それでお前は?ウララの何かになれたのか?それともこれからなるから邪魔すんなって言いに来たのか?」 俯けていた視線を男に向けた。  男は本来は口論などではなく相談という形で彼を牽制するつもりだったのだが、どちらにしろ邪魔をするなと脅そうとしていたのは図星で言うことが無くなってしまった。  悠飛もそれを察し、溜め息をついて「落ち着けよ」と、声に疲労を滲ませた。 「早く童貞卒業したいにしてもアイツはやめとけ」 思わせぶりな捨て台詞を残し階段を降りて行くが、その背中に罵詈雑言が浴びせられた。 「クソ野郎!俺は、俺は真剣に…偉そうに言うな!俺たちに近づいてみろ!お前なんか二度と学校に来られないようにしてやる!この、ナード野郎!」 男は悠飛の後を追って途中まで階段を降りて来たが、彼がイヤホンをしてしまうと諦めたらしく足音は止んだ。しかし狂ったような喚き声は耳に残り続けた。 「お前は捨てられたんだよ!誰もテメエの味方になんかなってくれない!ざまあみろ!ざまあみろ!は、は、は、は、は!」    ❇︎  青黒い日陰に守られた教室、陽の刺す橙色のグラウンド、どちらも青春だった。五月にしては鋭い陽射しを悠飛はカーテン越しに眺めていた。  組対抗リレーの男に罵倒された翌日、脅迫があったにも関わらず平然とクラスにやって来た彼にこれと言った災難はなく、それどころか今まで彫刻のようだと思われていた彼に寧ろ値踏みするような視線を向けられ男とその友人は戸惑ったことだろう。結局男が何もしてこなかったのは脅迫が一時的な感情の昂りから生じたものだからであって、『落ち着け』ば罪に走らないで済んだだけのことだ。 「茜谷お前打ち上げ来る?」 さっさと帰ろうとする彼をクラス委員が呼び止めた。  首を横に振ると、 「え、もしかしてウララとどっか行く?」 指をさして疑ってきたため「なんで?」と足を止めて振り返った。 「アイツも行かないらしいからさ。お前と仲良いだろ?二人でどっか行くのかと思って」 「行かねえよ」 委員の男は腕組みをして唸った。 「どうして来ないのかね」 「知らねえよ」 「お前から頼めない?よく話してんじゃん」 「話してねえよ」 「韻踏んでる?」 「踏んでねえよ」と言いそうになって顔を顰める。  ウララと山に死体を埋めてから何日も——正確にはトイレで口論をしてから一週間ほど、全く話していないどころか顔さえ合わせていなかった。プリントを渡すときも机に置かれ、答案用紙を回すときも手が差し出されるまで宙に浮かせている。それがなぜ、側からは「まだ」仲が良いと思われているのか。ウララの周りには常に誰かしらが居る。その「誰かしら」は女王に謁見する騎士のように顔ぶれを変え、手の甲へキスを求める代わりに甘言と学生「ウララ」の虚像を創り上げるよう求められる。  翳った瞳がウララを睨む。 「どうした?やっぱり打ち上げ来んの?来いよ、親睦深めるチャンスだぞ」 「え?」 黙っていると肩を小突かれ、眉間の皺を一層深めた。 「行かねえって。俺は…」 しかし悠飛には或る捨てきれない自負のようなものがあった——(いま)だウララに好かれているという矜持が。  周りがこの期に及んで二人を仲が良いと思っているのは、ウララ自身が周りの人間に悠飛との思い出を語っているからだと、妄想ではなくリレーの男が『アイツはお前のこと、可哀想としか思ってねえ』と、そう漏らしたように彼のことを語っているからだと推測していた。  仮にそれが真実だとして悠飛がウララを打ち上げに誘う未来など万が一にも存在しないのだが、ウララもその集まりに行かないというのは彼の孤独を逆説的に慰め得た。 「打ち上げ来ないってマジ?」 「ええ。ちょっと大事な予定があるんです」 ウララのもとでも同じ話がされていた。悠飛はクラス委員の説得に耳を傾けるフリをして、彼らの話を盗み聞きした。  いつになく落ち込んだ様子のリレーの男に、ウララは「すみませんね」と謝った。 「またご飯でも行きましょうよ」 「うーん」 「ああ、じゃあ貴方さえよろしければ今日の夜…というか今から私の家に来ませんか」 「ウララんち?えっ!え、いいの?」 「ええ。親もいませんしね」 「茜谷、茜谷って。話聞いてるかあ?団体割引がな、二十名以上で三%、二十五名以上で五%、四十名以上で十%になるんだ。つまりお前とウララが来てくれれば一人…」 「今日しか空いてないんですよ。急で申し訳ないんですけど。勿論貴方に予定があればどうぞ、そちらに行って…ね、また機会があればということで」 「一人250円割引で合計10000も…」 「予定無い無い!えっ、泊まりってあり?ウララが嫌じゃなければ…」 「構いませんよ。誰かが遊びに来るなんて久しぶりです…大丈夫ですか?それじゃあ行きましょう。楽しみですねえ」 「頼れるのはお前しかいないんだよう。頼む茜谷」 クラス委員に手を合わせられる。  薄暗い色の瞳が向けられた祈りに視線を遣る。教室の外で帰宅を促すトロイメライが流れていた。もうすぐ街を夕暮れが焼き尽くすだろう。放送機が音割れを起こしている。雑音の止んだ街で、煤になった家々は再び黄色い灯りを(とも)すのだ。  夜が来る。
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