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ウララとクラスメイトは電車を乗り継ぎ彼の家へと向かっていた。車内はサラリーマンや学生など草臥れた人でいっぱいだった。二人も大勢に紛れて立たなければならなかったが、壁際にいるのは決まってウララだった。
二人は表参道で降りた。
表参道という街にはシャンパンゴールドが似合う。高級ブティックが立ち並び、ショーウィンドウの向こうから光の帯が伸びている。しかし制服姿でどう振る舞うべきかとそわそわするクラスメイトの側を、たまに小学生が走って行くので男の気持ちは安らいだ。ただ、この街にはある種の病人、肉のたるんだ中年だけがいなかった。
いつもの散歩道を通って病院へ連れて行かれる犬のように、クラスメイトはウララに引率されて煉瓦造りの建物に入った。
「その前に演劇見ません?とっても面白いのがあるんです」
「演劇?いいけど」
男はポケットに両手を突っ込み、忙しない様子で辺りをキョロキョロしていた。
「『オスマントルコの収税吏の日記』を二枚」
ウララはチケット売り場の窓を叩き、受付の老人に微笑みかけた。
「暗証番号入力するので後ろ向いて頂けます?クレカの暗証番号ですよ」
「もうクレジットカード持ってんの?はや」
連れの男は数秒だけ後ろを向き、その間にクララはマスクを下げて舌を出した。
チケットを受け取るなり二人は腕を組んだ。エレベーターホールは床がモザイク画になっており、天窓から差し込む月明かりに白い魚の頭が照らし出されている。
エレベーター内は蛍光灯が眩しかった。会場に着いたらトイレに行きたいというクラスメイトに「後でね」と相槌を打つ。
地下二階。
その空間は暗かった。
深海のような重い闇に目が慣れず、暫くは緑色の光が散っていた。エレベーターホールに出て、足を踏み出してやっと床に絨毯が敷かれているとわかる。長い毛の絨毯で、背中を丸めた赤い魚がデザインされている。
「ここで少し待っていてください」
ウララは男の手の甲に頬擦りをして、奥の部屋へと消えて行った。
古いラブホテルのようだと男は思った。
携帯をいじって時間を潰そうとしたが、生憎の圏外だった。ウララの吸い込まれて行った先にはデパートにあるような両開きの、しかし金属で出来た自動ドアがあり、中がどうなっているかは確認できない。男も一度だけ中学校の課外授業で現代劇を観に行ったことがある。名のある俳優も出ていたが、今、自分のいる「劇場」の方がよっぽど立派なつくりだろう——厳しく重厚で、空気が重い。
苦しいのだ。
男はそれを暑さだと勘違いして胸のボタンを緩めた。だが実際は閉鎖された空間に酸素が供給され続けており、酸素中毒になっていたのだ。胸骨を圧迫されているような根本的な苦しさは解消されず、じわじわと意識が遠退いていった。終いには膝から崩れ落ち、赤い魚と対になる格好で倒れた。
そこへ
チーーン
…と言ってエレベーターが到着する。
魚眼の描かれたドアが開き、中から同じ制服を着た色褪せた髪の男が現れる。
奥の部屋からはウララが出てきた。
二人とも床に転がったクラスメイトを見つめ、色褪せた髪の方——悠飛は「殺したのか」と言い、ウララは「死んでいません」と言った。悠飛の眉間に皺が寄る。
「貴方は理不尽ですから。貴方が殺しなさい。ここまで来たのはそのためでしょう」
背中で両手を組み、倒れた男を見下ろしたまま言う。
だが彼を突き動かしていた衝動は新たな衝撃により相殺され、今、彼の胸中はシラフの状態に近かった。普通の人が持っている一般的な倫理観に揺らぎが生じ、足が竦んでしまっている。
「どうしました?感情に身を任せていないと人の一人も殺せませんか」
ウララの一般とはかけ離れた、しかし平然と語られる独自の倫理観に悠飛は頭が痛くなってきた。まず普通の、少なくとも国家と呼べるこの国の住民なら理性があるうちは何があっても人殺しをしないだとか、そういう当たり前の反論をしても全く無意味であるように思われて、寧ろ法を遵守している自分に疑問の矛先が向けられている気がして落ち着かなかった。
だがクラスメイトの指がピクリと動いたことで彼は身動ぎし、ふと自分の中を駆け巡った“衝動的殺意”に顔を熱くした。
「うん…もう少ししたら起きてしまいますよ」
「起きたら、どうするつもりだ」
「二通りあります。一つはこれが抵抗した場合、貴方が殺さないのであれば私が殺します。もう一つは貴方が逃げた場合、彼を手篭めにして精神的な支配下に置いて…貴方を殺させます。秘め事を知るのは一人だけで良いのですよ。悠飛さん…、
私は、その一人が貴方であればいいと願っています」
顔を上げた先、ウララの青黒い瞳に自身の顔が映っていた。疾しい愛情に飢えた、病気の捨て犬みたいな顔だ。
「そう、貴方です。私を好いてくれる方は貴方を含め沢山います。ですが私の全てを受け入れ愛せる人間は未だかつて出会ったことがありません。神以外に愛せる方はおりませんし、だから私は神を愛しています。もうお解りかと思いますが、貴方じゃ神になれない。でも私に好かれることはできます。貴方の渇望に私も応えたいと思っているのです。そして貴方が真にそれを望むのならば、私無しでは生きられないと言うのなら、貴方が私にとっての特別になるしかないでしょう。私を愛しなさい。悠飛さん。」
きっぱりとした口調で彼を諭す。
「私を愛しなさい。これを殺しなさい」
灰色の瞳が震えた。
震える瞳には深紅の絨毯が血の海に見えた。悠飛は小さく『私を愛しなさい。コイツを殺しなさい』と復唱した。それはもう一度、クラスメイトの首に手をかけたときも呟かれた。
「『私を愛しなさい』」
クラスメイトは失神している。暫くすれば目を覚ますだろう。何もかもから醒めるだろう。殺される者は、幸いである。
手に力を込めた。脳が煙に満たされるような感覚だった。
頸髄を潰すときの彼は、そうしているとは思えないほど虚ろな表情だった。僅かに頬の筋肉が強張り歯を食いしばっているのだと分かったが、首を傾げ、クラスメイトの顔を凝視する様はウララをも戦かせた。白目が充血し、血の涙が死相にパタパタと注がれる。
そうしたかと思えばフッと息をついて、死体を床に落とした。ゴンと鈍い音がして死体の頭部が絨毯に埋もれる。
彼は瞼の縁の血を拭った。ウララを見返し、続きの言葉を求めた。
背中の後ろで手を組んでいた彼は、
「いつかこうなる日を夢見ていました」
ぼそぼそと呟き、マスクを取った。明るい双眸が悠飛を見上げる。
「皆に会ってください」
左手が部屋の奥を指す。
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