恋色の痣

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 キーンコーンカーン・・・チャイムが鳴った。  今日1日の授業が終わった。  ガヤガヤと教室が騒がしくなる。雑巾の端を持ち、ぐるぐると振り回す子がいるかと思えば、手拭いを頭の後ろではなく、顎の下で結び大笑いしている子たちもいる。  三原 篤美にとってこのチャイムが待ち遠しかったのか、聞きたくなかったのか。いつもの様に三角巾を頭に巻き、雑巾を持つ。人混みを縫って持ち場の図書室へ向かって歩き出した。  すぐに六年生の教室が見えてくる。篤美の歩みが遅くなる。1組の教室だ。後方の扉を通りすがるときチラリと教室内を見る。教室担当の児童しかしない。ホッとしたのか、がっかりしたのか、心の中が渦を巻く。それでもいつの間にか図書室に向かって弾むように歩いているのが自分でもはっきりわかった。と言っても足取りを弾ませることはまだできない。気持ちの上では、ということだ。  水道の前に張り付いている鏡に映る自分が、いつも増して妙に気になる。少し立ち止まり、小さく前髪を揺らす。ほとんど変わりはないのだが、右手で何本か引っ張り整えてみる。まだ春になったばかりだというのにもう顔が焼け始めている。もっと色白ならよかったのに。健康的で可愛い、と両親は言ってくれる。去年まではそれが嬉しかったのに、と微かに篤美は寂しさを覚えた。 「ふぅ」 六年生の教室の方が図書室に近いから、もう班長は到着しているはずだ。いつも通りにしよう。そう心に決めた。  廊下を曲がると準備室の先に図書室が見えた。扉は開いている。微かにオイルワックスの匂いがしてきた。新学年が始まった間もないうちで、掃除当番総出で木製パネルの床にワックスを塗ったばかりなのだ。昨日のことをまた思い出してしまい、顔が熱くなった。赤くなっているはずだ。日に焼けたことを感謝したい。 突然声が聞こえた。 「二年生、こっちへ来て」 間を置かず篤美の目の前に男子が現れた。背が高い。後ろ姿しか見えないが、間違いなく班長だ。小さな二年生の男の子、女の子も見えた。班長が視線を合わせるためにストンとしゃがんだ。そのおかげで二年生の二人の視界に篤美が入ったようで、嬉しそうに手を振っている。 「さっちゃん、太一くん、こんにちは。早いねぇ」 この二人のおかげで自然に声が出た。しゃがんだまま班長が振り向く。切長の目と視線が合った。再び顔がカッとする。 「副班長、脚はもう大丈夫」 「脚っ!あっ、脚はもう大丈夫です。昨日はありがとうございました」 班長はこれに無言で首を振る。 「なんでもないならよかった。二年生にここの掃除を頼もうと思うから、副班長は中で指示して」 図書室の中から四年生男子の二人組が、こちらを見て笑っている。  篤美の通う青桜第一小学校では児童全員が掃除をする。各掃除班は学年を縦割りにして、2年生から6年生までで構成されていた。新しい掃除担当場所が発表されてしばらくすると、篤美の周りでは6年生のどの男子が配属されているか必ず話題になった。  それぞれが6年生の名前を教え合ってゆく。「えー、なんか残念」とか「嘘っ、本当に。いいなぁ」とか、思い思いに感想を述べている。篤美の班の班長は森下くん。下級生の女子の間では密かに人気があったのを、篤美は前々から知っていた。みんなの反応がある程度予想できたので、自分の班の班長が誰なのかを言いにくくなっていた。 「あれっ、そんなのどうでもいいって、いつも言ってた篤美さん。今回は発表が遅くない」 勘の鋭い恵が、皮肉っぽく問い詰めてきた。やっぱり気づくのはコヤツか。ふっとため息混じりに班長の名前を白状した。 「きゃー、ずるい。今回の大当たりは篤美だね」等々、同じような羨望のセリフが続いた。自分としてはこれまでとなんら変わりなく、班長を特に意識する存在とは思っていなかった。  木製パネルの床には定期的にオイルワックスを塗るのだが、伸ばし方がいい加減だと大変滑りやすい。ワックスを運び入れ、床にまくのは先生方だが、それを伸ばすのは掃除当番の小学生たちだ。むらなく均一に塗れるわけなどない。  昨日その作業があったわけだが、入り口近くを担当していたのはこの四年生二人組だった。図書室当番の中で1番手に負えない二人が、大人しく綺麗に塗るはずもない。そんなことより、わざと厚めに塗り残して、滑って遊ぶ始末だった。滑って転ぶ人がいたら危険であること注意した篤美は、来た方向とは違う向きへその場を立ち去ろうとした。  二つのモップが椅子に突っ込まれるようにして立てかけてあった。低い場所にあったし、二人組に注意しなければ、と意気込んでいた篤美の視界にはそれが入らなかった。モップの先端を踏みつけ足首を捻り、崩れたバランスを立て直そうと強く片足を踏ん張った。その片足がワックスに滑り横向きに転倒してしまった。  大きな音が図書室に響いた。転んだ拍子に木製のモップの柄を折ってしまったのだ。何事かとその場にいた児童が皆、振り返った。大きく目を見開いたこの二人は、駆け寄って助けるどころか 「すげぇ体重」 と言って笑っていたのだ。カーッと怒りが込み上げたがしかし、怒りの声は出ず、太ももの痛みに耐えられず呻いてしまった。スカートはベッタリとワックスが付き、痛いやら情けないやらで篤美は泣きたい気持ちだった。遠くに何もできずにいる同級生の男子が見える。が、次第にそれが歪んで見え始めた。その時スッと篤美の隣りにしゃがんだ姿があった。 「ちょっと見せて」 拒む暇もなくスカートの裾がほんの少し上に持ち上げられた。突然のことに篤美は何もできなかった。 「痣あざになってる。保健室に行こう。立てる?」 そう言ったのは六年生の班長、森下 雄二くんだった。かなり近い位置に顔があった。綺麗な眼だな。一瞬、痛みも忘れて全く関係のないことを思っていた篤美は、班長の問いかけにいつしかうなずいていた。脇の下に頭を入れられ背中に腕を回された。ヒョイっと難なく篤美は立ち上がっていた。 「どう、痛くない?」 気遣わしげな問いかけに、再び篤美は頷く。森下くんは篤美の同級男子に振り向きざま 「三原さんを保健室に連れて行くから。黒田君、副班長だからあとはお願いするね」 よく通る声でそう言った。二人は保健室に向かって長い廊下を歩き始めた。 保健室は1階昇降口の隣りだから、かなり距離がある。歩けると思っていた篤美だったが、しばらく進むとじわじわと痛みが強まってきた。篤美は迷惑をかけまいと痛めた右足に精一杯力を込めるのだが、痛くてうまくいかない。それを感じとったのか 「もっと寄りかかっていいよ」 前を向いたまま森下くんは言った。それがきっかけなのか、班長の体温が体の脇から伝わってくるのが妙に意識されるようになった。顔が熱い。自分ではわからないが赤面しているはずだ。どうしよう、こんなところ同級生に絶対見られたくない。とは思ったものの、既に他クラスの女子数名に見られていたのは篤美にもわかっていた。この状況を女性の先生が見かければ、見過ごすわけもなくすぐに介助してくれそうだが、こういう時に限って見当たらないものだ。やっと下階への階段に差し掛かった。 「ちょっと待ってて」 森下くんはそういうと、水道に駆け寄った。ポケットから紺色のハンカチを取り出すとそれを水に濡らし搾った。すぐに戻ってくると 「冷やすと少し痛みが和らぐんだけど、ちょっと・・」 班長の言いたいことはわかった。スカートを少し持ち上げなければ、ハンカチを脚に巻けない。男子なのでそれはやれない、と勘づいたのだろう。さっき何ということもなくしていたのに気が付かなかったのだろうか。自分のもあったのだが、班長は既にハンカチを濡らしてしまっている。ここはありがたく使わせてもらおうと決めた。 「ありがとうございます」 篤美は気持ちよく受け取った。森下班長は嬉そうな顔を見せるとそのままくるりと後ろに向いた。篤美の前方は、長い廊下の向こうのほうまで掃除を続ける児童でごった返している。 「僕の陰になっているから、多分みんなからは見えないはずだよ」 そうか、それならヨタヨタと後ろを振り返る必要はなくなる、と思うと班長はよくよく気の回る人なんだな、と感心した。とはいえ、気持ち的にはやはり気になるので、篤美は階段の陰に入った。熱を帯びた打ちどころにヒンヤリとしたハンカチが気持ちいい。確かに少し痛みがひいたような気がする。 「できました」 「じゃあ、ゆっくり階段を降りよう」 一段一段、慎重に歩みを進める。階段の高窓から射す光は白く、降りる階段は薄暗かった。 「あの、」 班長が言葉を途切らせた。暗くて良く見えないが、心なしか頬が赤く見える。 「さっきはごめんね。その、いきなりスカートを・・・」 意識しないようにしていたのに、その言葉で篤美は再び思い出してしまった。篤美の顔が再び熱くなる。 「いえ・・・」 やっぱり班長は気にしていたようだ。いまさらのような気もするが。嫌だったといえば傷付けるだろうし、なんでもない、といえばどんな女の子だろうと思われるかもしれない。 篤美には「いえ」と言う言葉しか選択肢がなかった。班長は軽く深呼吸をして、何かを思い切ったように話し始めた。 「2年生だったかな、階段から滑り落ちて角に脚を強くぶつけたことがあったんだ。すごく痛くて、涙が溢れそうで、でも泣くのが嫌で我慢してた。その時、高学年の女の子が僕を立たせてくれて、保健室まで連れて行ってくれたんだ。すごく嬉しかった。ああ、6年生ってすごいな、って思ったんだ。自分もそんな人になれたらいいな、ってね。だから三原さんが転んだ時に、助けなくっちゃ、って気持ちでいっぱいだったんだ。だからあんなことをしちゃって。でもいけなかった。ごめん」 そうだったんだ。迷うことなくスカートを軽く持ち上げたりして、変な人だったらどうしよう、と心のどこかで疑っていた自分が恥ずかしかった。だから嘘をついた。 「大丈夫です。心配してくれているんだなって、すぐにわかりましたから」 少し驚いたように森下くんは篤美を見た。篤美は正面から班長を見返した。 「ありがとう」 篤美の言葉を素直に受け取ってなのか、それとも嘘を見抜いた上でのことなのか、篤美には分からなかった。でも、その「ありがとう」は二人の心を強く結びつけたような、そんな確信を篤美は持ってしまった。  何を考えているんだろう、私。班長はただ単に私を助けただけ、と思っているに違いないのに。顔を赤らめながら階段を降りる二人は、それから顔を見ることができずにいたため、互いの顔の色を認識しないまま階段を降り切った。長いと思った階段はあっという間に終わっていた。  保健室の扉を横へ滑らせると、保健の先生が目の前に立っていた。状況を見て先生が篤美を支え、椅子に座らせた。 「このハンカチは?」 「僕のです」 「いい判断だったわね。乾かして明日返してあげるから、そう親御さんに伝えておいてね。で、何があったの」 経緯を班長が説明するのを、ハンカチを解きながら聞いていた先生は 「はーい、だいたいわかったわ。じゃあ、君は掃除場所に戻っていいわよ。ありがとね」 班長は律儀に扉前でお辞儀をすると、姿を消した。 「随分ひどく打ったわね、痛かったでしょう。良く我慢できたわね。あら、なに、スカートべったりじゃない。この臭い、ワックスね」 そういうと先生は私物が入っていた棚の引き出しから、ベージュ色の布を引っ張り出してきた。 「今日の服装には合わないかもしれないけど、これ巻きスカートになるから」 篤美のスカートを緩めておいて、その上からスカートを巻き付けると、下になっていた汚れたスカートをスッと引き下ろした。テキパキとそれをビニール袋に詰め込むと 「これで持って帰れるでしょ。巻きスカートはいつ返しにきてもいいわよ。で、あなたからも何があったのか聞いておきたいわ」 篤美はベッドに寝かされ、先生は氷嚢をタオルに巻いて脚に押し当ててくれた。篤美は頭を整理しながら始めから事情を説明した。けど班長が登場するたびに顔が熱くなるのを感じた。 「なんか、顔が赤いけど熱はないわよね」 「ち、違うんです。熱じゃないと思います・・・たぶん」 「あらあらあら、そうなの。そういう事」 私のこの気持ちが先生にバレてしまったんじゃないだろうか。でも、ならこの際、今の気持ちを誰かに聞いてもらういい機会かも。でも言いたいけど、胸に詰まっていることを吐き出してしまいたいけど、いきなりこんなことを言われたら先生だって困ってしまうだろう、と篤美が思い悩んでいると 「そんな潤んだ瞳で、思い詰めたような顔して人を見るんじゃないわよ。私でよければ聞いてあげるよ。っていうかね、そういう相談が本当に多いのよ、私。何かしら、前世で巫女とか占い師とかだったんじゃないかしらね」 そういうと、車のついた椅子をキュラキュラキュラと引きずって、ベッドの横へ付け座った。 「まあ軽口はこの辺にしておいてと。どうなの、好きになっちゃったの」 いきなり、こんな直球でくるとは思いもしなかった篤美は、これまでにないほど顔が熱くなるのを感じた。でも、恥ずかしい、という壁に小さな穴が開いたようで少しホッとしたのも感じた。そして、この問いかけに、ほんの小さくうなずいた。 「アッ、でも違うんです。良く分からないんです。その、こんな気持ちになったことが・・・」 最後は消え入るような声になっていた。突然、先生は立ち上がると白衣の胸ポケットからペンを抜き、窓際へと歩み寄った。ペンを右手の人差し指と中指で挟み、まるでタバコを吸うかのように口元へ運んだ。左手で右腕の肘を支えると、校庭を眺めながら 「わかってないわね、それは恋。そう、あなたは恋をしたのよ」 まるでドラマの一場面を見ているかのような先生のセリフに、篤美は堪えきれず吹き出してしまった。 「どう、面白かった。やりたかったのよね、これ。真面目な相談に不謹慎、いや、おちゃらけちゃあいけないとも思ったんだけどね。でも、何事も思いつけちゃいけない。あの男の子に助けてもらったから、一時的に憧れを持ったのかもしれない。もう少し時間をかけて、自分の気持ちを確かめないとね。今はこれ以上考えてもだめ。確かめられたと思ったらまたきなさい。打撲の治りも見たいからね」
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