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二
今宵こそ、機が訪れそうだ。今日の日の出を注意深く見て、車がかりに雲気があったのを知った。あれは雨の前兆だ。それに黄昏こそ美しかったが、空には黒い雲が幅を利かせている。空気も湿ってきた。この時分には、笛が吹くという子刻には雨が降るだろう。逆に、ここで雨が降らなければ、あるいは雨が降って笛が鳴ってもその正体を暴けなければ、さすがの松平も我慢の緒をぷっつり断って、自分を追い出しにかかるに相違ない。
なれば、今宵が最初で最後の勝負――重四郎は鼻の穴を膨らませ、数刻も前から勢い込んでいた。
簡素な飯をすますと縁側に座り、月を眺める。月に欠けた暈がかかっている。風雨の兆しが重なっている。空気はいよいよ湿っぽくなり、気早の蛙が鳴き始めた。もう空はすっかり暗い。蠟燭を点じて傍らに置くと、重四郎は胡坐を掻いて目を瞑り、深々と息を吐いた。
柱に背を預けて、少し寝入る。雨が降るとわかって安堵したようだった。笛を聞くのにはどうせ、子刻を待たねばならぬ。今宵必ず起きるその時のため、気を蓄えておいた方が良い。
夜は、いよいよ更け行く。妙な圧を持つ闇が周りを取り巻き、時の流れをも忘れさせる。
しとしとと降り注ぐ雨は、蝋燭のか細い火の周りでだけ細い銀閃に変わる。初めは一定の間隔だったのが、ざらざらと激しく降り注ぎ出す。無明を騒がせる雨の囁き。やがてそれは、轟々と渦を巻いて、夜闇に混淆する。
何もかもが無明の中に落ち入っていく夜――。
しかし、その中でも時は確実に流れている。
どこからともなく、笛の音が聞こえてくる。
日付は、すでに変わっていたのだ。
重四郎の目が開いた。雨音に搔き消されそうな弱弱しい音であっても、若き剣士の耳には、朗々と響いたと見える。彼はすぐには立ち上がらず、四方を睥睨した。夜闇に慣れ切った目でも、音の出所を見極めることはできない。そもそも、この屋敷の怪異の根本は、怪しき笛の音が、どこからともなく聞こえてくるということである。音の主はもちろんのこと、音のする場所を見極められないことが不思議なのだ。
しばらくの間、重四郎は静かに笛の音を聴いていた。そうしている間にも、笛はいよいよ朗々と、雨の帳を貫いて響く。しかし姿は見えぬ。闇の中には、一点の光もなく、何かが動き回るような気配もない。
重四郎は、ふっと息を吐いた。そして、この屋敷に持ち込んでいた数少ない私物の中から、すらりと長い、一本の筒を取り出した。蝋燭の光の中に朧気に現れたそれは――笛である。
重四郎は目を閉じ、歌口をそっと唇に当てた。一刹那の息吸う声を置いて、静かに調べを奏で始める。重四郎の音色は、雨夜の笛に隣り合って、闇夜を漂い始めた。
二つの笛が雨を掻き回す。雨夜の笛は帳を切り裂くように高く、重四郎の笛は帳を震わすように低く――互いが互いの旋律を補い合うかのように、対話するかのように、歩を揃えて哀切を謳う。聴く者の目に、ゾッとするほど美しい夢幻を見せるような、妖しき奏で――。
どれほどの時がたっただろう。時を忘れた夜の中では、ほんの数時であっても永久のようである。やがてどちらからともなく笛の音が細くなり、無明に溶け合うかの如く消え行った。
深く深く息を吐いて、歌口から唇を離す重四郎。その背後に、誰か立っている気配があった。
重四郎は騒がず、灯を自身の背後に向ける。そこにいたのは、背の高い一人の男である。
奇妙な姿だった。昔の僧兵のような姿で金剛杖を持ち、黒袈裟に白足袋、大きな数珠を肩から下げている。白髪を振り乱し、瞳を猫のようにぎらつかせて ――そして口元は、鬼面を模した頬当によって覆われていた。
重四郎は片膝をつき、腰の刀に手をかける。相手は金剛杖で床を軽く突いた。空気が震え、鞘から引き抜かれたばかりの刀が躍動して重四郎の手から逃げる。弾かれた刃はそのまま庭へ飛び、地面にぐさりと突き刺さった。
重四郎は目を怒らせ、腰を上げてなおも挑む様子を見せる。相手はゆっくりと右手を前に掲げ、それを制した。
「――そういきり立つものではない。貴公と刃を交える心算はありませぬ」
地底から響いてくるような重々しい、それでいて耳には冴やかに聞こえてくる声だった。重四郎は男の目をまっすぐ見上げる。決して小柄ではない重四郎だが、男は頭一つ背が高い。
男は手を左右に広げ、優雅に一礼する。僧衣のどこかに付いた鈴が、からりと音を立てた。
「定命の者の前に姿を現すことは鬼にとって禁忌。しかし今宵、素晴らしき笛の音に誘われ、姿を現した次第にございます。我の笛に歩を合わせた調べは、貴公のものか」
ゆっくりと頷く重四郎。男は深々と嘆息して、眦を和らげる。
「見事な腕前でした。我が笛と音を合わせることができる笛――その才が、今の世に残っていようとは。これほど愉しい思いをしたのは、数百年ぶりのこと」
「貴様は――否、貴公は何者なのか」
鬼です――こともなげにそう言って、男は再度一礼した。
「名は――」
「鬼に名前など御座いませぬ。酒呑童子、茨木童子、温羅、大嶽丸……すべて人間が勝手に付けたもの」
「本当に――鬼なのか」
人の世で言う鬼に類するものではあります――。含みのある物言いであった。
「何を以て鬼とするか……人の世ではかるそれと、我ら鬼の理とでは齟齬もありましょう。我の正体を問う貴公に対しては、鬼と答えたが最も理に適っているというだけのことです」
「……して、その鬼が何ゆえ雨夜の都度、この松平の家に現れて笛を吹かれるのか」
重四郎としては、いきなり本題に切り込んだ心算であった。が、鬼はホウ――と梟の鳴くような声を出して、
「ここは人の家でしたか。何百年も人世を空けていると、人世の倣いにも疎くなりまして」
「その何百年前とやらには、人世にいたのか」
「左様。都におりました」
「京の都――その時はどこに」
人世の呼称は覚え難いのですが――と、鬼は頭を掻き掻き、
「確か――朱雀門とかいう、立派な門の楼上におりました。そこで出会ったのが博雅三位という名の男。その世に二人とはおらぬ、笛の名手に御座いました」
「博雅三位――まさか貴公は、夜もすがら朱雀門で源博雅が会っていたという、あの――」
重四郎は目を見開いた。声が上擦った。
ご存じであったか――と、鬼はどこまでも平静である。
「で、では貴公が、天下第一の笛、葉二の元の持ち主……」
「あの笛は、今も帝の宝のままですか。さほどに持ち上げられるような品ではないのだが……それに、宝物殿の奥深くにしまっておかれるよりも、事あるごとに時の笛吹きどもが吹く方が、あの笛にとっても幸せだと思うのですが」
「――」
重四郎は言葉を返せなかった。幼少の頃に聞いた昔語りだった。笛については天賦の才を持つが故に、その話だけはよく覚えていたし、幼い頃は信じてもいた。その説話に登場した鬼が、今こうして、目の前にいる――。
不思議な感動に打ち震えた。
悠久の時を経て巡り合った笛の鬼――。これは偶然か、あるいは必然か。
「それで、なにゆえに数百年の時を経て、笛を吹きに現れたのか」
ごくりと生唾を飲み、寸時の逡巡を経て問うた。どのような答えが返ってくるかと、身を強張らせて。しかし、鬼は何の躊躇いもなく、そして深みもない声で答えるのである。
「理由などありませぬ。鬼は人と違い、定命に縛られないもの。数百年など一眠りなのです。我にとっては、久しぶりにぶらりと人世に立ち寄ったくらいの気分。ここの庭の菊が、あまりに見事なもので――特に雨そぼ降る夜、銀閃に取り巻かれながら揺れる様が、とかく美しく、物悲し気で――。それで心誘われるままに、笛を吹いていたに過ぎないので」
「そう――ですか」
暖簾に腕押しとは、こういうことを言うのだろうか。しかし相手の顔色や声色を読む限り、のらりくらりと躱してこちらを幻惑するような目論見は毛頭なさそうだ。たぶん、本心から言っているのだろう。そして見えているものや感じている時の幅が、人間のそれとはまるで相容れないだけなのだ。曲がりなりにも、そう納得するしかないと重四郎が嘆息していると、
「それで――貴公は何故、この屋敷へ。見たところ、博雅殿のような官人とは見えませぬが」
「ああ……それは――」
怪異の退治に来ましたなどと答えるのは、さすがに気が引けた。が、重四郎は根が生真面目である。向こうが本心本音で答えている以上、こちらも相応の誠を以て応じなければ義に悖ると考えるような。そこで、ぽつりぽつりと言葉を絞り出した。話しきるまでには、少しばかり時間がかかったが、鬼は一言も相槌を差し挟まず、静かに聞いていた。
「そういうことになっておりましたか」
重四郎の話を聞いて、鬼は納得したように何度も何度も頷いた。
「それで、怪あらば退治せよと、そういうことなのですね」
重四郎は無言で頷く。鬼は虚空を睨めて、やれやれといった風に首を横に振った。
「人というのは、いつの世も変わらぬ。彼岸の徒然に倦んで人世を訪れた、その束の間の渡来すら許そうとしないとは。その狭量のために、今までどれほどの鬼が露と消えたことか」
「……」
「それで、貴公も我を斬る御心算か」
重四郎は首を横に振った。その顔には、夜闇よりも深い憂いの色があった。
「しかし、貴公はそのために雇われたのでしょう」
「それはそうですが、貴公があの朱雀門の鬼だと分かって無理だと分かりました。それに、それがしの得物は既に庭の向こう。討とうと思っても討てませぬ」
「ならば、このまま功を成さずに屋敷を発つ御心算ですか」
重四郎は頷いて、寂しく嗤った。
「剣を頼り、立身出世を願って江戸に来たが――それがしの道ではなかったようだ」
左様か、と鬼は頷く。気づけば、雨は既に止んでいた。すんと済んだ風が鼻をくすぐる。月が穏やかに輝いて、雲の気配はない。通り雨だったのだろう。明日は、よく晴れそうだ。
鬼が一歩引いた。同時に、ころころと何かが転がって、重四郎の爪先にあたる。拾い上げると、笛だった。ハッして相手方を見ると、鬼は既に体の殆どを闇に溶かしながら、
「雨夜の笛も今宵限り。松平家の怪異は、今宵を以て終わる。貴公はその笛を証として、この家に仕えることもできましょう。しかし――奇縁により笛を合わせた異界の知己が申すこととしてお聞きくだされ。貴公が既に自覚する通り、剣の道は貴公の道ではありませぬ。貴公の才は、また別のところで華ひらくもの。思えば、それを貴公に伝える、そのためにこそ、我は雨夜の笛を奏でたのかもしれぬ。――天明は、鬼であっても如何ともし難いもの。どうかこの夜の出会いが、貴公にとって吉兆となりますよう。我にとって、二人目の――」
言葉の尻は、闇に溶け込んで消え行って、重四郎まで届いてこなかった。彼は笛を手に、鬼が消えた方をいつまでも見つめていた。優しい夜の風が再三流れて、足元の灯を、そっと吹き消した。
(了)
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