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「でさ、この前行ったとこなんだけど……」
若い男の声だった。目をやれば、二十代ほどの金髪の男が、赤みがかった茶髪の女と腕を組んでこちらに歩いてくるところだった。うだるような暑さにも関わらずぴったりとくっついて、いかにもお互いしか見えないという雰囲気がある。
思わず開いた口を閉じ、唇を軽く噛むと、戸来は目を逸らした。知り合い同士の会話に戻ろうと、黒樹たちの方へ頭を動かす。
途端、戸来はピシリと固まった。連れの大人二人は、無言だが、はっきりと眉をひそめていた。浮かれた様子に呆れているというには、もっとはっきりとした嫌悪が見えた。
表情を戻したのは、佐々木が先だった。同時に、件の男がこちらを向く。
「……え、何。何か用スか」
どことなく、面白い物を見つけたというような声音だった。目を見開き、口元には笑いが滲んでいる。女は男の肩に頭をくっつけたまま、真顔でこちらを見つめていた。
「……ああ、いえ……」
戸来が慌てて口を開く。黒樹も佐々木も、何も言わなかった。しらけるような空気の中に緊張感が混じり、戸来は曖昧な微笑みを浮かべた。
「ええ?」
男が笑いながら首を傾げる。が、その視線が動くとすぐ、笑みが凍りついた。徐々に目が見開かれ、薄い唇がゆっくりと開いていく。
「あ、ああ、いや、スイマセン……あのこれ、妹なんで」
早口でぶつぶつ言うと、会釈したまま顔を逸らした。「ええ、妹ぉ?」と甘い声をあげる女をひきずるようにして、男はうつむき加減にそそくさと歩き去っていった。
しばらく無言が続く。沈黙を破ったのは、黒樹の「……知り合いですかな」という声だった。
ああ、と佐々木が頷く。
「例の、死んだっていう女性の恋人だよ。死んだ彼女と一緒に、店に来ることがあってな。そのときに世間話を交えて紹介されたんだ。まぁ、男の方はたまにしか来なかったけど」
そこまで聞いたとき、戸来の首筋が唐突に粟立った。反射的に息を飲む。
気配を感じたのは、身体の反応があってからだった。
足下に、女がいた。アスファルトの隙間から生えた雑草の傍らに、青空のような色の上着を着た女が、這いつくばっている。
身体が強張る。こめかみを汗が伝った。声も上げられずにいる戸来の耳に、ぼそりと重たい声が入った。
「いた」
か細い声だった。女は地面に手をついたまま、そのままさっきの男女の後を追うように這っていった。やがてゆっくりと地面から手を離し、膝をついて立ち上がると、体を重たげに引き摺るようにして、ずりずりと歩いて行く。
鼓動の音が響きそうなほど、心臓が鳴っていた。意識してようやく、戸来は息を吐き出した。
「……い、今の」
絞り出した声は、掠れていた。
ああ、と佐々木が頷く。
「ついていったな。さっきの」
世間話でもするかのような響きが、戸来の神経を静かに波立たせた。暑さに凍えるような奇妙な心地になりながら、胸の底にたまっていた苦々しい言葉を吐き出す。
「お、俺だって、他人のこと言えるような人間じゃないですけど……でも、あの、あ、あんまりじゃ、ないですか」
地面に目を落とす。強い日射しを受けて、影が濃く広がっていた。
まぁなぁ、と佐々木がため息交じりの声を出す。戸来はふと、上司の方を見やった。さっきから一言も発していない黒樹は、じっと女の幽霊が進んでいった先を見つめていた。腕は垂らしたままだがその指先は曲がり、いつものナイフでも掴もうとしているのか、時折微かに動いている。
その静かな眼差しから、感情は読み取れなかった。
「クロさん、大丈夫ですか? あんな感じでしたけど、どうするんです」
戸来が訊くと、黒樹はゆっくりと視線を戻した。口元を吊り上げたかと思うと、徐々に笑みを顔一面に広げていく。
「とりあえず、佐々木さんのところでお昼でも食べましょうか」
相手は意外にも、優しげな口調で言った。
「あの感じですと、すぐに事は起こらないでしょう。それに、何をするにしても、最近の夏の真昼は危険な暑さになってきていますし、お二人が熱中症になっても大変ですから」
戸来が佐々木と顔を見合わせる。戸来が苦笑しつつ頷く隣で、佐々木は唇をひき結び、黙って首を横に振った。
「まだ店の準備もしてないし、素麺くらいしか出せないぞ」
時間はやや遡る。
病院内を歩く女の幽霊を見つめ、男の子はぽつりと言った。
「ううん、あれはおれの知ってる人じゃないなぁ」
幸太は男の子を見た。それから、「じゃあ、ひとちがいだね」と言った。
「まぁ、ひとちがいっていうか……」
「ああ、いたいた!」
男の子の声をさえぎるように響いたのは、幸太の父親の声だった。どうやら見つかってしまったらしい。
男の子は素早く視線を動かし、幸太の耳元に口を寄せた。
「おれ、タクマっていうんだ。もう行くからさ、じゃあ」
早口で言う男の子に、幸太もうなずいた。
「ぼくはコウタ。じゃあね」
短い別れを済ませるとすぐ、父親がぱたぱたと駆け寄ってくる。幸太の前にしゃがみ、「はぁ」と深いため息をついた。
「びっくりしたんだぞ、急にいなくなるから。まぁ、迷子にならなくて良かったよ」
眉を下げて笑う父親に、幸太はうつむき加減に謝った。
「ごめんなさい」
「いい、いい。ただ、もう勝手にいなくなっちゃダメだぞ。パパもママも、びっくりするし、心配するからな」
うん、と頷き、幸太はちらりと目線を動かした。その先にはもう、赤い女も、タクマの姿もなくなっていた。
父親と再会したらしきコウタの姿を見届け、拓磨は廊下の角を曲がった。幽霊と同じ方向に行きたくはなかったから、反対側を行くことにしたのだ。出入り口の方へ歩いていれば、そのうち先生に会えるだろうというのが彼の考えだった。
その考えがすぐ実を結んだのは、意外だったけれど。
「おい、何してるんだ」
聞きなれた低い声がしたのは、看護師や医師と何度かすれ違い、受付に近づいていたときだった。
来た道を引き返し、戸来ら一行は事務所の入った雑居ビル一階へと辿り着いた。店主が留守にしていた今まで、戸来はまじまじと見ることもなかったが、ここにきてようやくアルバイト先の事務所の下が《れすとらん 桃花》という小料理屋であることを知った。
休業中の看板はそのままに佐々木が戸を開けると、むっとした熱気とともに白い陽光が射し込み、薄暗い床をさっぱりと照らし出した。小さめの店内にはカウンターのほか、細い通路を挟んで木製の机と椅子が数席並んでいる。壁や天井は白に、机や椅子は黒茶に塗られており、小綺麗な和風の装いとなっていた。
「ちょっと材料取ってくるから」 手伝いを申し出た戸来を片手で制し、エアコンをつけると、佐々木は店の奥に引っ込んだ。それを見送りつつ、慣れた様子で黒樹がカウンターに腰かける。やや考え、戸来はその隣の椅子を引いた。
佐々木が戻ってきたのは、間をつなぐ話を振る間もない、すぐのことだった。
「テレビでも点けるから、くつろいでていいよ」
氷と水を入れたコップを用意し、戸来にそう声を掛ける。やがて小気味良い包丁の音と水音が響き始めた。野球中継では四回裏、コールドゲームでありながら一点を返し、歓声が沸き上がっている。空気が変わり盛り上がってきたところで、湯気がカウンターからのぼり始めた。
試合を目の端におさめつつ、世間話はぽつりぽつりと盛り上がった。佐々木が語るには、今まで店をあけていたのは実家の片付けに呼ばれていたためであり、黒樹を留守番にするのは不安だったが、案の定、知らぬ間に助手ができていたから苦言を漏らさずにはいられないということだった。それをいかにも苦々しげに、それでいてどこか冗談めいた雰囲気のある真面目な口調で語るものだから、戸来は笑いながら相槌を打った。当の本人である黒樹はと言えば、気まずそうにちびちびとコップの水を飲んでいた。
黒い目が不満げに戸来を見やる。
「さっきから聞いていれば、私をダシにしたお話で盛り上がって……トキさんは私の味方なんじゃないですか」
普段は人を喰ったような態度である一方で、冗談の種になるのは慣れていないらしい上司が、拗ねた様子で言う。
「味方だから、笑い合えるんじゃないですか」
戸来が応じると、黒樹は口を噤んだ。目線を数回泳がせ、コップを口元に運ぶ。
「そう仲良くなられても、事情も知らないまま代々化物の面倒みることになってるこっちとしては、複雑なんだけどな」
ため息をつきながら、佐々木が小鉢を机上に置いた。ざるにたっぷりとのせられた素麺に、薬味と麺汁がそれぞれ入れられた小鉢を添え、三人が食卓につく。そうやって静かに麺を汁につけたり、啜ったりしているうち、ゆっくりと空気が緩み始めた。涼やかな昼食を済ませ、皿洗いを後にした三人の視線は、野球中継に注がれるようになっていた。
黒樹が席を立ち上がったのは、窓の外に夕闇が垂れ込め始めた頃だった。菫色の空を見上げ、相手は椅子の背に掛けていたジャケットを手に取った。
「……では、この辺で。私は少し、用事がありますので」
ごちそうさまでした、と告げるなり、出口へと向かっていく。「ちょっと」と立ち上がった戸来をよそに、戸を閉める音が店内に響いた。
「すみません。俺、ちょっと行ってきます」
やや考えた後、戸来は言った。
ううん、と、佐々木は認めるとも反対するとも言えない声を出した。
「そんなに気に掛ける必要があるのかね。似てはいるが、あれは人間じゃないんだぞ。下手したら、自分の方に火の粉が降り注ぐことにもなりかねねぇし」
腕を組んだ相手に、戸来はうつむき、ややあって顔を上げた。
「それはそうですけど……でも、あの人はただ周りに火の粉を降り注がせるだけの人じゃ、ないと思うんです。もちろん、完全に解り合えるなんて思ってませんよ。ただ何にしても、傍にいる人間は必要でしょう? その火の粉がどんなものなのか知るとか、他に燃え移らないように見張るとか、鎮めるとかするためにも、……放ってはおけないじゃないですか」
その口調は佐々木に言うというよりも、どこか自分に言い聞かせるような響きのある言葉だった。
二度目の戸が閉まる音を聞き、佐々木は今日だけで何度目かになるため息をついた。
「変なヤツってのは、傍にいるのも変なヤツなんだな」
呟いた声に、夏の特番だというバラエティ番組のオープニング曲が重なった。
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