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中肉中背と言うにはやや脂肪のついた、四十代ほどの男だった。身につけている黒いシャツには汗が滲み、まだらなシミを作っている。足下には底のしっかりとしたサンダルを履いていて、どうにかアスファルトの熱を隔てているらしい。
そこまで見たところで、戸来は息を飲んだ。
男の片足を、青白い手が掴んでいた。その先を辿れば、黒い髪を垂らした女らしき頭と、赤く汚れた青い上着が見える。女は男の足にしがみついて、引き摺られてきたようだった。
「ああ、これ」
男は足下に目をやった。
「さっき立ち寄った病院で遭ってから、ついてくるんだよ。本当は抱えたかったんだけどさ、どうにも離れないんだな、これが。で、仕方ないから引き摺ってきた」
世間話でもするかのように言う。
言葉に詰まった戸来に、男は「というか、見えるんだ」と感嘆の声を上げた。
レジ袋を提げた手で、相手は「クロキ怪異相談所」のドアを指す。
「これが見えるみたいだし、そこのお客さん? なら悪いけど、見ての通りそこは閉まってるよ。まぁ、昼頃まで待てば戻ってくるだろうけど」
勝手知ったるかのような口ぶりに、戸来は目を丸くした。
「ああ、いえ……僕、ここのアルバイトで、ちょっと用事があったもので。ええと……」
様子を窺うと、相手は「ふぅん」と納得したような、気のないような、なんとも言い難い返事をした。新入りの挨拶でも眺めるように、その無愛想な視線が戸来に向けられる。
「おれさ、ここの一階で、料理屋やってんだよ。そこの三代目なんだ。しばらく出張に行ってたんだけどさ。
で、上にいるやつ……つまり君の上司なんだけど、それとも知り合いなんだよな。だから、どんなとこかも知ってんだけど……マジで、あんなとこでバイトやってんの?」
腕を組み、にこりともしないその表情には、大きな岩のような威圧感があった。が、言い方にはこちらを心配しているかのような響きがある。
変わった感じはあるが、悪い人間ではないらしい。
戸来は頷いた。
「はい。ちょっと前からなんですけど、僕が依頼したのをきっかけに色々ありまして。アルバイトの契約を結んだんです」
マジかぁ、と相手が唸るように言う。苦々しい声音に戸来が言葉を返すよりはやく、男は口を開いた。
「まぁここで話してても仕方ないし、続きは中で待ちながらやるか」
そう言って、ズボンのポケットから取りだした手には、黒いタグのついた鍵が握られている。
慣れた様子で扉を開ける大きな背に、戸来は続いた。男の足下には目をやれないまま。
主のいない事務所は、いつもより広く感じられる。戸来は妙な心地になりながら、窓を開け、麦茶の用意をした。二人分か三人分かで悩み、結局、コップを取り出す。
盆ごと茶を運び込む。荷物を置いた男は「悪いね」と片手を上げた。
「さっきもちょっと言ったけど、おれ、ここの下で料理屋やってる佐々木孝道って言うんだ。ここの所長とはまぁ、先々代からの付き合いになるな。で、君は?」
麦茶を二、三口飲むと、その声音はいくぶんか柔らかくなった。
佐々木と名乗った男に、戸来が頭を下げる。
「戸来優佑と言います。ここの、クロキ怪異相談所のアルバイトです」
首筋がじっとりと汗ばんでいた。夏の暑さによるものが半分、佐々木の足下から漂う気配を受けての冷や汗が半分で、生ぬるい感覚が膚にまとわりついている。
「……あの、大丈夫なんですか」
視界の端に映る黒い頭を感じながら、戸来は言葉をついだ。
「ああ。まぁね。すぐにどうにかなるわけでもないし。君だって、別に、こういうのは初めて見るわけじゃないだろう」
視界の下の方で、赤く濡れた女の手が、弱々しく蠢いている。
「まぁ、確かにそうですけど……」
戸来は言葉を濁した。
気配の生々しさもあったが、それ以上に、どうしても女の存在が気になっていた。例の、自殺したという人物ではないのか、という気がしてしかたなかったのだ。もしもそうであるのなら……いや、そうでないとしても、いかにも未練を残した霊のような存在は、戸来の意識にこびりついて離れない。
今まであまり考えないようにしていたが、実際に目にすると、どうしようもなかった。
戸来の胸の内に同情のような気持ちが湧くのと、佐々木が「おい」と声を上げたのは、ほぼ同時だった。
気づいたときには、気配が戸来の足下にあった。
「……え、う……」
驚きの声は、喉に引っかかった。
赤く濡れた体は佐々木の足を離れ、戸来のすぐそばまで這い寄ろうとしていた。「ったく」と、佐々木がため息をつく。
「下手に同情したら駄目なんだよ。ひかれ合っちまうからな。上司にならわなかった?」
疲れたような声音で言いながら、自分の方にでも戻そうとしたのか、女に手を伸ばす。その手がぴたりと止まった。
ソファの方へ体を仰け反らせていた戸来も、目を丸くする。
女は動きを止めていた。じりじりと戸来から遠ざかると、這いつくばったまま静かになる。
不思議そうに静観していた佐々木は、ふと戸来を見た。
「……そういえば、君、戸来くんは、何の用でここに来てたんだっけ」
え、と目を丸くしつつ、戸来がハッとしたように答える。
「……クロさん……所長に、訊きたいことがあるんです。朝起きたら、この、髪の毛の一部が白くなってて。ただの若白髪かもしれないですけど、化生関係でも色々あったので、もしそこら辺の影響受けてのこれだったら、と思って。念のため、把握できることはしておきたくて」
曖昧にぼかしつつ、戸来は白くなった辺りの髪をつまみ上げた。
佐々木が眉を顰める。
「……そういえば君、大学生っぽいけど、何歳?」
「十八です。大学の、一年で」
「危険な年齢、か」
佐々木が呟く。
その声に続いて、低い声がした。
「サリンジャーですかな」
聞き慣れた声に、戸来が肩を揺らす。
入口には、事務所の主である似内黒樹が、普段通りの黒いスーツに身を包み、腕を組んで立っていた。
室内に沈黙が流れる。蝉の声が響き、ただ暑さが膚にまとわりついていた。
「おや、文学談義かと思ったのですが。危険な年齢、サリンジャー。ライ麦畑でつかまえて、と言った方が一般的でしたか。そういったお話ではない?」
黒い目を細めながら、相手は部屋に入ってきた。長い脚で大股に、ゆったりと歩く。どこか芝居がかった歩みで、黒樹は戸来の隣に立った。白髪の下の目が、一瞬、さらに細くなってこちらを見下ろす。
「クロさん……」
緊張の糸が緩む。戸来はやっとの思いで、口を開いた。が、思うように舌が回らず、説明の言葉は出てこない。
黒樹は戸来を一瞥すると、その視線を動かした。
「何やら、トキさんは変わったお客に付きまとわれているようですねぇ」
いつも通りの愛称で戸来を呼び、口元は僅かに吊り上がってこそいるものの、その目には笑いの陰もない。
「ねぇ、佐々木さん。私はお二人のことは知っていますし、多分お二人も知り合いになったからここにいるんでしょうが、こちらの女性は全く知りませんよ。久しぶりに帰ってこられたあなたに訊くのもなんですが、これはあなたが連れてきたものですかな」
佐々木は麦茶を飲むと、じろりと黒樹を見た。
「まぁ、そうなるな。寺にでも連れて行ければ良かったんだろうが、足にしがみつくもんだから、やっとの思いで帰ってきたんだ。そこに、そっちの彼が居合わせた。訊きたいことがあるらしいが、まずはこれをどうにかするべきだろうな」
ふむ、と黒樹が首をひねる。その手はおもむろに、腰のナイフホルダーへと伸びた。
「とりあえず、さっさと片付けてしまいますか」
そう言うなり、ナイフを引き抜く。銀色の刃が陽の光を受け、鈍く輝いた。
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