1.引きずる

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1.引きずる

 窓の外には、夏が並んでいた。  八月も半ばに差し掛かる。白い雲を浮かべた真っ青な空、だれかの家の庭先に咲き誇るアサガオ、太陽の熱をすいこんで黒々と輝いているアスファルト。四角いビルがたちならぶ街のかどでは、少し前までその全体を覆っていた緑のシートが取り払われて、チョコレートみたいな茶色い建物が太陽の光につやつやと輝いていた。  けれども、それも外のことで、今自分がいる病院の中はといえば、クーラーがよく効いて心地よいくらいだった。ぐるりと続く白い壁、家とも幼稚園とも近所のスーパーとも違う、「きれい」な空気。  そして、不思議な、赤い女の人。  つまらない病院の中を歩いて行く謎めいた女の人に、清水幸太は首をかしげていた。 (さゆり先生みたいな、大人の人だけど、なんで、あんな歩き方なのかな)  入院服姿で雑誌の立ち読みをするおじさんの向かいを、女の人は通り過ぎていった。売店のケースの中にはアイスクリームやスポーツドリンク、麦茶が並んでいるけれど、ちらりとも見ない。カガミみたいに自分の姿が映りそうなピカピカのろうかを、ずるずると足を引きずりながら歩いて行く。女の人の真っ赤な服は、今、幸太が着ているパジャマみたいな病院の服とも違っていた。 (なんか、ヘンなの……。ケガとかビョウキとかしてるのかな。ぼくは元気だけど、いろいろな人がいるって、パパも言ってたし)  幸太はこっそりと、後ろでジュースを選んでいる父親を見やった。 「本当に、運が良かったんだよ。ちゃんと治るかもわからなかったんだ。今はこうしてお話したり、テレビを観たり、普通の生活ができているけれど、前までのコウタはどこを見ているのかもわからなくて、声を掛けても返事も何もしなかったんだから」  父親はよくそう言うけれど、幸太にとっては、夜に眠って朝に起きたら、いきなり世界が変わったようなものだった。気づいたら病院にいて、しばらく病院が家代わりだと言われて、幼稚園にも行けなくて、どうしてときけば、「おばけがコウタに悪い夢を見せてたんだ」と両親や病院の先生は答えた。けれども幸太はその夢だって覚えていないし、どこも痛くないし、苦しくもない。何かの病気にでもなっていたようだけれど、覚えていないのだから、何にもなっていないのと同じだとしか思えない。オバケのことをよく知っていそうな人は知っているけれど、病院から出られないのなら聞きようがないから、やっぱり何が何だか分からない。そんな、不思議な日が続いている。 だから。  あの女の人も、そんな《ふしぎ》のひとつなのかも。  幸太はこっそりと、父親のそばを離れた。  前まではヒゲがなかった父親の顔に、ぽつぽつとひげが見えるようになったり、仕事でめったに会えなかった母親が、よく会いに来てくれるようになったり、気づけば、毎週観ていたはずの「スターレンジャーズ」には新しい武器や必殺技が出ていたり……。 不思議なことはいっぱいあるけれど、「なんで」って聞いたって、みんな、すぐにべつの話を始めて、ちゃんとは教えてくれないのだ。それなら、自分で《ふしぎ》を追っかけてみたい。  抜き足さし足、幸太はろうかを歩く女の人に向かって歩き始めた。  とうめいなケースの向こうにずらりと並んだペットボトル、うすい水色の服を着たお姉さんがかまえているレジ、ぬっとそびえ立つジドウハンバイキ。店の入口から先、白いろうかにそぅっと出たときだった。 「……うん?」  ひとりの男の子が、こっそりと角から頭をのぞかせていることに、幸太は気づいた。  黒い髪はさらさらと輝いていて、同じ色の目は大きな切れ込みを入れたようにすっと通って大きい。青いシャツに、足首がのぞく黒いズボンを履いている。小学校か、それよりも上のお兄さんに見えた。しきりに首を動かし、なんだかきょろきょろ、こそこそしている。 「ねぇ、なにしてるの」  ひょいひょいと近づいて声をかければ、相手はびくりと肩を揺らした。 「なんだ、びっくりした……」  じとりとした目線がふってくる。幸太はきょとんとして、もう一度聞き直した。 「なにしてるの。なにか、さがしてるの」  しぃっと、男の子は口元に人差し指を当てた。幸太は男の子をまねて、口に手を当てた。しずかに、という声に、こくこくうなずく。 「今日さ、先生が退院するんだよ。確か、お昼ぐらいにね。で、病院には来るなって言われてたんだけど、こっそり来たんだ。ええっと、だから、その先生を探してたんだよ」 「学校の先生なの?」 「いいや。そうじゃないけど、すごい人なんだ。色々知っててさ、ギジュツもあって。ゲンドウはちょっとアレだけどね。たださぁ、病室の番号とか教えてもらってなかったからさ」 そこまで言って、相手は顔をしかめた。 「まぁその先生は、ここにいるって分かってるんだけど……できれば、あともうひとり、探しているんだよね。 そうだなぁ……君、女の人、見なかった? 長くて黒いかみの、お姉さん。先生とよく一緒にいたんだけど、ちょっと前に来なくなっちゃって」 幸太は首を横に振りかけて、ぴたりとその動きをとめた。 男の子が「どうした?」と首をかしげた。ひざを曲げ、幸太の視線の先をたどり始める。 「もしかして、あのおねえさん?」  幸太がむじゃきに指さす。  売店の向かいに続くろうか、のぼり階段の方へと、人影は歩いていた。 それは、長いかみをたらし、うなだれて、赤くぬれた体を引きずるようにして歩く、あの女の人の後ろ姿だった。   カーテンの隙間から射す陽の光を額に感じ、戸来優佑(へらいゆうすけ)は寝返りを打った。大学の長い夏休み、実家に帰省することをやめた夏の平日は穏やかで、時間を平たく伸ばしたかのような気さえする。ベッドに寝そべったまま時計を見やれば、針は八時より少し前を指していた。 外からは、県外からでも遊びに来たのか、普段にはあまり聞かないような、子供たちがはしゃぐ明るい声が響いてくる。蝉の声もぶつかり合い、耳にも暑さがまとわりついた。 欠伸をひとつこぼして、戸来は体を起こした。講義もサークルもなく、特に予定もない。ゆっくりと伸びをする。昨日のサイクリングで足を延ばしすぎたためか、ふくらはぎが鈍く痛んだ。いつもよりはのんびりと、けれどもやることはいつもと変わらずに、朝の支度をし始める。 「今日はどうするかな……夕食は夜市で買うにしても、それまではヒマだし……そういや、前の講義で出てきた本もチェックしなきゃな」  独り言を呟きながら、洗面所へ向かう。 顔を洗い、鏡に顔を近づけて、髭を確認したときだった。ふと目をあげた戸来は、目を見開いた。 「……はっ?」  前髪の一房が、微かに白くなっている。鏡の角度のせいかと頭を動かしてみるが、どこからどう見ても白い。昨日までは確かに、今まで通り黒かったのに。  若白髪、という言葉が頭をよぎる。それにしても唐突な、はっきりと目に見える変化に、頭の芯が冷えるような気がした。  夢だろうか、と腕をつねってみる。痛みが走り、苦い気持ちが胸に広がったときだった。 コロコロコロ……と、部屋に穏やかな音が鳴り響いた。 電話だ。 戸来がぎくりと顔を向ける。机上のスマートフォンの画面は、同じ研究室の友人の名前を表示していた。 「……もしもし? 小野寺くん?」 「あ、もしもし戸来くん? おはよう」  相手は普段通りの早口で挨拶を述べた。戸来が挨拶を返すより早く、まくしたてるように話題を切り出す。 「今日ってさ、認知心理学の集中講義、休みでいいんだよね。一昨日、確認し忘れちゃって、気になっちゃって」  心配性な友人の杞憂に、僅かに気が抜ける。戸来はほっと息をつきつつ苦笑した。 「なんだ、それか。大丈夫だよ。土曜に講義、日月休みであとは火、水で追い込むって話だったろ? 今日は月曜だから、休み」 「だよね、良かった……」 「まぁ集中講義なんて初めてだし、俺ら以外みんな先輩だったから、心配なのはわかるけどさ。そんなに気張らなくてもいいと思うよ」 「まぁ、そうは思うんだけどさ……。でもあの教授、めっちゃ厳しくない? なんかついつい、緊張しちゃうんだよ」 「よく言うよな、居眠りの常習犯がさ」  普段の講義では必ずと言って良いほど船を漕ぐ友人に、戸来は笑った。 「人間の集中力ってのは、百分やそこらも続かないもんなんだよ。ああ、そういえば」 悪びれもせず、相手が言葉をつぐ。 「大学の掲示板、見た? 二高方面の、ビルとか画材屋とかが並んでる方でさ、飛び降りだって。大学からあんまりにも近いとこだからさ、びっくりしちゃって」 「ああ、昨日、スマホのニュースで見たよ。びっくりしたよ、こんな田舎で飛び降りなんて。若い女の人だろ、救急車の音も聞こえたしさ」 戸来の言葉に、相手は不安げに頷いた。 親や恋人、先輩や他の友人たちにも散々振られた話だった。事件と言えば盗みだとか不審者情報だとかがほとんどの、のどかな地方都市にはあまりにも唐突な話題だったのだ。 戸来は白くなった一部の前髪を弄りながら、「まぁ」と付け加えた。 「話題が話題なだけに、教授も話題にするだろうけどさ。気にしすぎるのも良くないよ。なんなら、無料公開されてる映画のURLでも送ろうか? おすすめの作品あるんだよね」 「うーん、そういうのすごくありがたいかも」 いかにもすまなそうに言う友人に、戸来は苦笑した。先輩から教えて貰っていたSF映画を紹介し、何度もなぐさめを口にしながら電話を切る。 「……まぁ、気になるのも無理ないよな」 苦々しく呟きながら、戸来は白髪をつまみ上げた。 自殺にまで追い込まれる状況が身近にあったということも何だか恐ろしいが、今この状況では、自分の身に起こった変化も怖い。とりわけ、一番解消してしまいたい不安は早いうちに潰した方がいい気がする。  戸来はアルバイト先の上司を思い浮かべた。あって欲しくはないが、自分の身に起こった変化が「不可思議」なものであれば、彼が何か知っているだろう。 何しろ自分の体に入れられているのは、化物の、彼の血なのだから。 戸来は部屋着を着替え、冷蔵庫にストックしていたサンドイッチと麦茶を口にして、簡単な支度を終えた。歯磨きのついでにもう一度鏡を確認すると、登録済みの「クロさん」の電話番号をタップしつつ、右手で鍵を回す。 「……出ない」  数コール待ったが、相手が出る気配はない。仕方ないので直接、自転車を漕いでいくと「クロキ怪異相談所」の扉には「外出中」の看板がさげられていた。 「依頼なら電話が来るはずだし、買い出しでも行ってるのかな……なんでこんなときに……」  白い日射しが、外階段に散らばった埃を浮かび上がらせている。汗が背中を伝い、流れていった。下にとめた自転車のチューブやサドルは、干からびる寸前の最後のきらめきのごとく、ぎらぎらと照り映えている。 この暑い中、どうしようか。 思わずため息が漏れたとき、後ろから太い声が掛かった。 「そこ、何か用?」  振り返れば、レジ袋を手にしたスキンヘッドの男が訝しげにこちらを見つめていた。
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