会ったこともないけど好きなひとの話をしていたら、先輩の反応がだんだん不自然になってきた。

4/4
49人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
 晩ごはん食べていく? と言い出したのはミリヤであり、ソロモンは否やもあるはずもなくある日の退勤後、ふたりで街場のレストランに向かった。   ミリヤおすすめのこぢんまりとした店で、ミリヤの選んだ料理もソロモンの好みに合うものばかり。思いがけず会話が弾み、しまいにどちらが言い出したのか「好きなひと」の話になった。ソロモンはそこで、大いに落ち込んだ。 「俺は好きなひとに嫌われてしまったので……」  ワイングラスを傾けていたミリヤは、むせて慌ててグラスを口から離した。 「ソロモンくんでもそんなことあるの?」 「ありますよ。あるに決まってるじゃないですか」 「衝撃の事実。ソロモンくんって、誰にでも親切で特定の相手なんかいないと思っていた。好きなひといるのかなって思ったこともあったけど、終わったって? あ、メープルシロップもっとどうぞ」 (「好きなひといるのかなって思ったこともあった」ってどのへんで、だろう。鋭いな)  ソロモンは内心首を傾げつつ、ミリヤが押し出してきた小瓶はありがたく受け取る。パンケーキが浸るほどにシロップを注いでから、考え考え言った。 「会ったことはない相手なんですが。ずっと手紙のやりとりだけで」  ナイフとフォークを手にしていたミリヤが、動きを止めた。うかがうようにちらっとソロモンを見てから「手紙?」と聞き返してくる。  別段隠す必要性も感じなかったソロモンは、首肯して認めた。 「俺の援助者のひとです。かけがえのないひとでした。恩返しなんか全部断られていましたが、かなうことなら一度だけでもお会いしたいと願い続けていて。そう伝えたら、返事がこなくて、それっきりになってしまいました。怒らせてしまったんだと思います」  ガチャン、と音を立ててミリヤがナイフを床に取り落とした。素早く寄ってきた店員が、新しいナイフを置いていく。それを待ってから、妙に強張った顔のミリヤが、口角を半笑いで震わせつつ言った。 「怒ったんじゃなくて、どうしても会えない事情があっただけじゃないかな?」 「どんな? 返事もできないほどの理由が?」 「そうね……、怪我とか?」  言われた瞬間、ソロモンはがたっと席を立った。 「こうしてはいられない。行かないと」 「どこへ? ソロモンくん、相手がどこの誰だかも知らないんだよね? ちょっと落ち着こうか。メインのうさぎを食べて、お砂糖いっぱいのお茶を飲んで」  もっともな指摘と魅力的な提案に引き留められ、ソロモンは椅子に腰をおろす。  ミリヤは何かを押し隠したような笑みで自分の心臓のあたりを手でおさえながら、しきりと頷いていた。  その顔をじっと見つめてから、ソロモンはかすかに首を傾げた。違和感。 「ミリヤ先輩、どうしましたか。心臓でも痛いんですか?」 「べつに? なんでもないよ。さ、食べよ食べよ」  話は移り変わり、「好きなひと」の件はそこまでとなった。  その日、珍しく深酒をしたミリヤであったが、「支払いは自分が」と言って譲らず、店員の差し出した紙にソロモンの目の前でさらさらとサインを書いた。いつもソロモンに自分の字を見られるのを嫌がっていたミリヤだが、このときは違うことに気を取られていたか、それとも酔いがまわっていたのか。珍しい、とソロモンはその字を見てしまった。  * * * 「頭痛い……。飲みすぎた……水……」  呻きながらミリヤは毛布の中でもぞもぞと動き、手を伸ばす。 「どうぞ」  そのとき、聞き覚えのある声が響いた。失礼、と囁かれて体を抱き起こされ、唇にコップを近づけられる。目をつむったまま飲むと、ひんやりとしてどことなく甘い水。こくんと飲み込み、小さく吐息した。  それから、状況の異常さに気づいて、体を強張らせた。 (き、記憶……。記憶が飛んでる。飲みすぎた。うそ……ここどこ?)  恐る恐る目を見開くと、夜明けの薄ぼんやりとした光が窓から差し込む、寮の自室であった。机の上に積み上がった夥しい冊数の本の影はたしかに見覚えがある。   問題は、明らかにそこに自分以外の誰かがいて、ミリヤの体を支えながら水を飲ませてくれているということだ。 「おはようございます、ミリヤ先輩。かなり足元が覚束なかったので、お部屋までお送りしました。深酒するのを見たのは初めてです。様子がいつもと違ったので、念のため起きるまでと思ってついていました。頭痛はひどいですか?」  触れ合っているがゆえに、体に直に響いてくる甘い囁き声。 「大丈夫です……」  息も絶え絶えに答えたミリヤは、ちらかった自分の机の引き出しから、便箋がはみ出ているのを見てしまった。何度も何度も見た最後の手紙。  なお、机の上には“エルヴァスティ伯爵”が使っていた便箋と封筒が……。 「先輩、俺の食べ物の好みにずいぶん詳しいなとは思っていたんです。理由がわかってすっきりしました」 「理由」  そーっと見上げると、抜群の笑みを浮かべたソロモンが、ミリヤを見下ろして言った。 「詳しく話をお聞かせ願えますか? エルヴァスティ伯爵」  この後、甘く優しく強請られたミリヤがすべてを打ち明けることになり。「どうしても会いたかったひと」と「また笑顔が見たかったひと」が同一人物だと知ったソロモンが、ミリヤに狙いを定めて全力で迫り、結婚を承諾されるまでの期間は、周囲が驚くほどに短かった。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!