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引かれるまま緩やかに走ってるとアパートが見えてきて、どうして知ってるんだって思って即座に要とキスしてたことを思い出した瞬間、僕は反射的に手を振り上げ捕まれてた手からするりと離れる。
走ってた余韻で足が縺れながらも踏み止まり顔を上げれば、中学校から見てた後ろ姿は停止しこっちを振り返って繋いでた手を見たあとにこっちに視線を向けた。
驚くでもなく、怒るでもなく、ただニッと笑みを浮かべる荻野潮に「……あ、」と怯えて今まで温もりを感じてた捕まれてた手が寒く思って反対の手で掴んで一歩後退ってしまう。
そんな怯える僕を見て、「ははっ」と声が上がった。
「どーしたよ、弟くん。走るの疲れた?」
「……あの……」
「まっゴールはすぐそこだからファイトだ、腹が減ったろ行こーぜ」
くるり、と。こっちを向いてた体は前を向き、のしのしとアパートに向かう後ろ姿がどんどん離れるので慌ててそれを追い掛ける。
謝った方が良いのかもとか、急に謝って理由を聞かれたらどうしようとか、ぐるぐると考えながら向かう今日で最後になる自宅のドアノブにビニール袋がぶら下がってて。
それを荻野潮がガサリと音を立てながら取ってからこっちを振り返った。
「これ、先に買っといた昼飯。親父が1時過ぎじゃないと来れないから弟くんが腹減るってことで、デリバリーに来たお兄ちゃんでっす」
「え……ご飯、届けに来てくれたんですか?」
「そ」
「……ありがとう、ございます……」
ご飯のことは全然考えてなかった、引っ越しのことと卒業式で頭がいっぱいだったから。
どうやら鍵がないのでドアノブに掛けてからその足で迎えに来てくれたらしく、ここまでしてもらったのに無下に出来る訳もないので鍵を取り出して「どうぞ」とドアを開ければ荻野潮は口角を上げる笑みではなくニコッと人好きしそうな笑みを向けてきた。
もうすぐこの部屋ともお別れか、と中に入ると「お邪魔しまーす」と次いで入ってきた男は「弟くんの荷物は?」とがらんと何もない室内を見渡すので、奥の和室を指差す。
「向こうに、置いてあります」
「手伝おっか?」
「あ、え、終わってるので、段ボール出すだけだから何もない、です……」
「じゃ、飯食おーぜ」
どかりと床に座りビニール袋を広げるので、ちょっと間を空けて座れば、「ほら弟くんの分」と目の前に飲み物とパンを置かれ、それを見て固まってしまった。
最近ハマってリピートしてるコンビニのコロッケパンと、好きなコーヒー牛乳だ。どっちも僕の好きなもので、何で知ってるんだ?
「ん? もしかして嫌いだったとか?」
と言いながら同じパンとコーヒー牛乳を手にする荻野潮に、慌てて首を横に振る。
「いえ、……えっと、好きなんですか?」
「これ美味いって聞いて気になってたんだ、弟くん食ったことある?」
「あ、はい……僕は好きです……」
「へえ、なら良かった良かった」
そう笑って包装を開け、コロッケパンをひと口食べて「ん、美味ーな」と頷く姿に、単なる偶然で僕の好きなものだったのか、と小さく息を吐いた。
このパンが好きって言ったのはネットくらいだったし、人に言ってないのをほとんど見ず知らずのこの人が知ってるはずがないんだ。
と、そこでやっぱり落ち着かなくて荻野潮をチラッと見、視線が合ってしまって慌てて俯けば「どーした?」と存外優しげな声で言われてしまい思わず顔を上げる。
「ナニか言いたいならどーぞ。折角2人っきりなんだし」
「……あの」
「うんうん」
「……、……要と、付き合ってるんですか?」
要にも聞けなかった、のをようやく振り絞って聞けば、荻野潮は「かなめ?」と首を傾げてから少しして「ああ」と指を鳴らした。
「そーいやこのアパート見たことあんなと思ったら、そーだった、オレたち会ったことあるな」
「……」
「あん時のイケメンくんね、はいはい、覚えてる覚えてる、キスしたわな」
僕にとってはショッキングな思い出だったそれを、荻野潮は忘れてたみたいなリアクションで笑ってから前屈みになって僕の顔を覗き込む。
「あのイケメンくんの知り合い?」
「……幼馴染み、です」
「幼馴染み。ははっ、幼馴染みが男とキスしてたのが気になんの? 付き合ってるって思ったってことは想像したんだ? どこまで? 幼馴染みとオレがセックスしてるとこまで想像した?」
「は……」
あまりにも直接的な言葉に固まってしまう僕、の顔にズイッと顔を近付けてきた。
「君があのイケメンくんのことが好きなら、どんなだったか教えてやろーか? なあ、」
「っ、……!」
近付いてきた荻野潮の肩を制するように手を置いて、俯かせた顔を横に振る。
冗談じゃない、冗談じゃない、冗談じゃない。
「弟くん?」
「違っ、嫌だ、違う、要なんか好きじゃない、あり得ない気持ち悪い嫌だ、知りたくない、怖い嫌だ気持ち悪い」
「……」
「誰と付き合ってても良い、せんぱい、先輩と付き合ってても良いから、僕に近付かないで欲し、欲しくて……っ、だから……!」
「ははっ」
そこで笑い声が聞こえ肩を震わせる僕、の手にそっと大きい手が重なって。
顔を上げれば荻野潮は不敵な笑みを浮かべてた。
「そっか、弟くんは幼馴染みくんが嫌いなんだ」
「あ……の、」
「付き合ってねーよ? つーかキスしてくれって頼まれたからしょーがなくしただけだしな」
「……頼まれた?」
「そ」
「何で?」
「知らない。だから別にそれっきりだし」
「……」
そう、何だ……いや、キスって普通付き合わないとしないもんじゃないのか?
荻野潮はそうじゃなくても、要がキスを頼むってことは好きなんじゃないか?
「……先輩は、」
「なあ弟くん、さっきから先輩ってオレのこと? さすがに他人行儀過ぎだろ。せめて潮って呼ばないと」
「ハードルが高くて」
「ふーん? じゃあ、うしくんでもイイぜ? オレも……佐助、だからすけくんって呼ぼうか?」
「! そ、れ、は……ちょっと」
うしくん……ネットのフォロワーの『牛くん』を思い出すし、僕のペンネームが『すけがき』と安直なせいで牛くんに『すけくん』と呼ばれてるので、兄になった人と牛くんが被ってしまうのが嫌で首を横に振った。
「ははっ、弟くんはやだやだばっかで反抗期か?」
「ご、ごめんなさい……」
「イイけど、ところで」
「はい──」
ちゅっと口に何か当たり、近すぎる荻野潮に混乱してるうちにぬるりと唇を何か濡れたものが触れ、そして顔が離れてく。
……え、何、え?
混乱する僕をよそに、荻野潮はポケットからキャンディのようなものの包装を開けて中身を口に含むと、ぐいっと僕の後頭部に手を回してまた顔を近寄せて。
「や、な……っ、んん!?」
それが何なのか理解した瞬間には遅すぎて、僕の唇に同じものを重ねる荻野潮の肩に手を置いて押す、けど食むように角度を変えながらまた唇をぬるりとしたそれが触れる。そう、舌だ。
何で、これ、キスされてるんだ、と愕然する僕、の口の中に容易く舌の侵入を許してしまい、いきなり過ぎる行為に思考が停止した。
何で、要とキスしてた話からズレて呼び方の話をしてたのに、何で無関係の僕がキスをされてるんだ、と他人の熱と感触に不快感に震えそう、と思った。
「ん、……はぁ、む……?」
コロッと舌に何か乗せられ、甘い味が広がるそれに不快感が一気に『甘い』で満たされる。
息遣いだとか、よくわからない音と状況に思考と体が付いてけないせいで甘い味に集中してしまう。
「ん、ん、……むぐ……」
「ふ、」
鼻から抜ける甘さは、これはミルクキャンディだって思って、そう言えば牛くんが『ミルクキャンディが好きなんだ』と言ってたのを場違いにも思い出す、そうだ今度買おうなんて話してたなんて。
「あ……」
音を立てて舌が口の中から抜き取られ、濡れた舌で自分の唇を舐める荻野潮をぼんやりと眺め、まだ口の中にある少し小さくなったキャンディがころりと舌の上を転がって。
「は、はあ……はあ……え、な、んで?」
ようやく動き出した思考に慌てて口を手で覆ってよろける体は後ろに仰け反って、背中から床に落ちてしまう。
何で、僕は今、この男にキスされたんだ?
と口の中に広がるミルクキャンディは甘いままで混乱する、何で、何が、突然過ぎる。
そこで「ははっ」と笑い声が聞こえ、上体を起こせば荻野潮はニッと笑みを浮かべてた。
「弟くんにキスしたくなったからしちゃったわ」
「……………………は?」
しちゃった、ってそんな軽く言って良いものじゃない、初めての行為をそんな何、何でしたくなったんだ、僕と、脈絡どこ……
震える僕、の手を取って「はい」と手の平に何か置かれる。
何、と思って見ればミルクキャンディで、口の中のそれをガリッと噛み砕いた、ところでピンポーンと呼鈴が鳴った。
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