健康な家族

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 その日は欠員が出たせいでパートを切り上げるのが随分遅くなってしまった。パート先を出る頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。美智子は自転車に跨ると大急ぎでペダルを踏みこんだ。家路を急いでると、見慣れた住宅街の途中に淡い光が漏れている一角があった。美智子は妙な違和感を覚えた。どうやら店屋らしい。  こんなところにお店なんかあったかしら?  どうにも気になって美智子は店先に自転車を止めた。それは随分と侘しい古民家で、瓦の(ひさし)の下には『夢乃漢方堂』と書かれた看板が配されていた。どうやら老舗の漢方薬局らしい。美智子は店内を覗いてみることにした。古びた木枠のガラス戸を引き開けて店内へ足を踏み入れると、微かにお香のような香りが鼻をついた。  店内は本格的な漢方薬局で、壁一面に配された木製の棚によくわからない乾物や薬草の類がガラス瓶に詰められて整然と並んでいた。  ぐるりと店内を見まわしてから、勘定台の端に奇妙な張り紙があるのを見つけた。そこには白地の和紙に墨でこう書かれていた。 “生活習慣病予防に最適。病気レンタル始めました”  病気レンタル? 何じゃそりゃ? 「いらっしゃいませ。何かお困りですか?」  美智子が怪訝に思っていると、勘定台の奥の『調剤室』と書かれた扉から店主らしき男が現れた。白衣に坊主頭、べっこう眼鏡をかけたその風貌はまるで戦時中の憲兵を思わせた。 「あ、え、えっと…、たまたま通りかかったもので…。あの…ここに書いてある病気レンタルって何ですか?」  美智子が当然の疑問を口にすると、男は愛想よく説明を始めた。 「その名の通り、当店では病気を貸し出しているのですよ。この国の死因で最も多い病気は何かご存じですか? 癌と心臓病、それに脳卒中です。これらは生活習慣病と呼ばれ、偏った食生活や運動不足、飲酒や喫煙などの不摂生が原因であることはよく知られています。にもかかわらず、不摂生を続けて病気にかかる人間は後を絶ちません。なぜこの人たちは病気のリスクを知っていてなお不摂生を続けるのか? それは病気の実感が伴わず、その恐ろしさを知らないからなのです。遠い未来の心配事より、目の前の誘惑を選んでしまう…本当に大切なものは失って初めて気づくのです。そこで当店では病気の恐ろしさを体験してもらうレンタルサービスを始めたのです」  そう言うと、男は勘定台の下から何かを取り出した。それは手の平サイズの麻でできた巾着だった。 「この中には特別にブレンドしたお香が入っています。それぞれの病気の特性に合わせて素材と配合を調節したものです」 「この匂いを嗅ぐとたちまち病気になるっていうの?」 「いえいえ、眠るときにこの巾着を枕元に置いていただくのです。すると特定の病気に罹患(りかん)した夢を見ることができるのです。それはそれは夢とは思えぬほど現実感を伴ったリアルな夢です」  眉をひそめる美智子に構わず、男は先を続ける。 「例えばこの巾着は、末期の肝硬変に罹患した夢に対応します。何度かお試しいただければその効果を実感していただけますよ。二度とお酒に手を出す気になれませんから」  そう言って男は美智子の目の前で麻の巾着を振って見せた。 「つまり、恐ろしい病気の夢を見ることで、生活習慣の改善につながるってわけ? …例えば、家族に禁煙させたい人間がいたとしたら……」 「こっそりとその方の枕元に巾着を忍び込ませてください。その方が眠り込んだら、耳元で囁くのです。“これはあなたの不摂生の結果”だと。夢と暗示の作用で効果は倍増しますよ」  べっこう眼鏡の奥の瞳が怪しく光った気がした。美智子は薄気味悪さを覚えて逃げるように店を後にしたのだった。    頭を掻きながら不貞腐れる慎一の前で、美智子は仁王立ちしながら記憶を蘇らせていた。壁掛け時計に目をやると19時を過ぎたところだった。    あの薬局…きっとまだ開いてるわよね…。  美智子は急いで踵を返すと、慎一の部屋から走り出た。取り残された慎一は何が起こったのか分らぬまま、とりあえず修羅場が一旦収まったことを知って安堵した。
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