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慎一は痛さにも似た息苦しさを覚えて目を覚ました。何かがおかしい。まるで部屋ごとヒマラヤの山頂に瞬間移動したかのように、室内の空気が薄まっているように感じた。部屋の暗さからみて、まだ夜中のようだ。
声を上げようとするが、喉からはヒューヒューと汽笛のようなか弱い音が漏れるだけだ。
何とかベッドから転がり出ると、廊下に向かって這い進む。 “このままでは溺れ死んでしまう”という奇妙な感覚があった。これが海中なら水面に向かって一目散に浮上すればいい。だが、ここは見知った自宅の中だ。目指すべき水面などどこにもない。慎一はパニックに陥った。必死に手足を動かして洗面所までたどり着くと、洗面台によじ登って照明のスイッチを入れる。鏡に映った自分の姿を見て驚愕した。
そこにはげっそりと痩せこけた自分がいた。青紫に変色した唇を歪ませて苦悶の表情を浮かべている。
チアノーゼだ…
鏡に映った姿は血中の酸素濃度が明らかに不足していることを物語っていた。必死で息を吸おうとするたび首筋の胸鎖乳突筋が膨隆するが、肺は膨らむどころか虚脱して肋間が空しく陥没する。慎一は釣り上げられた魚のように口をパクパクさせながらその場にへたり込んだ。
「一番大切なものは失って初めて気づくのよ」
声のした先に視線を移すと、暗がりの中で美智子が椅子に腰かけているのが見えた。
「あなたは長年の喫煙が祟って末期の肺気腫に陥ったの。肺の毛細血管から酸素を取り込むはずの肺胞壁はことごとく破壊され、あなたはこの地球上の酸素濃度の下ではもはや生きていけない」
冷たく言い放つ妻に唖然としながら、慎一は何とか声を絞り出す。
「…お、俺は…どうすれば…いいんだ…」
「高濃度の酸素を投与するしかない。そうすれば助かるわ」
よく見ると美智子が赤ん坊のように何かを抱きかかえているのが分かった。暗がりでよく見えないが、それは重そうな円筒状の物体だった。
医療用酸素ボンベだ! 助かった‼
妻が自分を救おうとしていることを知って、慎一は最後の力を振り絞った。何とか美智子の足元まで辿り着くと、円筒状の物体に手を伸ばす。そこで初めて違和感に気づいた。その物体は赤い色をしていた。
「あら、あなた。こんなもの手に取ってどうするつもり?」
赤い物体の表面に描かれた白い文字を読み取った慎一は、絶望とともに白目を剥いて力尽きた。
そこには“消火器”とあった。
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