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美智子は飛び起きると、ぼやけた頭で周囲を見回した。そこは見慣れたリビングだった。いつの間にかテーブルに突っ伏して眠ってしまったらしい。
それにしても変な夢を見たものだ。
時計を確認すると日付をまたいだところだった。悪夢を振り払うように頭を振ると、美智子はよろよろと席を立った。
慎一と陸斗はジョギングから帰ったのだろうか?
陸斗の部屋を確認しようとして、美智子は激しく狼狽えた。
あるはずの扉がなかった。子供部屋の扉が消え失せて、どういう訳か白い壁に変わっている。
美智子は後ずさると、急いで慎一に助けを求めようとした。二階に駆け上がろうとして、またも驚愕する。
二階へと続く階段も無くなっていた。そこにもただ白い壁があるだけだった。
美智子は頭を抱えて室内を見回す。よく見ると、あるはずのものがすっかり消えて無くなっている。
家族旅行で撮った写真、陸斗が書いた似顔絵、慎一の趣味の釣り竿……。初めから存在しなかったかのように、すべて消え失せていた。
美智子は脱力してその場に座り込んだ。そして右手に何か握りしめていることに気づいた。それは一枚の紙きれだった。クシャクシャに丸めた紙切れをほどくと、“領収証”の文字が見えた。
美智子は刹那的に全てを理解する。悪夢は夢ではなかった。美智子は確かに自分自身のためにその病気を借りたのだ。人生の最後に、もう一度夢を叶えるために。
陸斗の部屋も二階への階段も無くて当たり前だ。そもそもこの部屋にはそんなものは無かったのだから。この部屋は寂れた高齢者団地の一室なのだから。
慎一と陸斗がこの世を去ったのは、もう何十年も前の出来事だ。それは不運な交通事故だった。夜間にジョギングに出かけた二人は、飲酒運転の車にはねられてあっけなくこの世を去った。二人の思い出の品を処分して、この団地に移り住んだのが数年前。美智子はすでに一人で寂しく死んでいくことを受け入れていた。はずだった。あの漢方薬局を見つけるまでは。病気レンタルの張り紙を見つけるまでは。
死期が迫った美智子にとって、それは抗い難い誘惑だった。もう一度、三人で、家族で過ごす日々を取り戻したかった。
やがて美智子は最初に借りた病の記憶を封印し、夢と現実の境界も取り去ってしまった。
そして今、返済期日を超過したこの病は効力を失効してしまった。
大粒の涙が皺の刻まれた美智子の頬を伝う。
私は存在しない家族のために、せっせと病気をレンタルしていたのか…
そう考えると、一層みじめな気分になって乾いた笑いが漏れた。
涙が手元の紙きれに零れ落ちると、『レンタル商品(病名):妄想性障害』の文字が濡れて滲んだ。
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