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学校の昇降口を出ると、ムンとした熱気が僕の身体にまとわりついた。暑い。まだ梅雨は明けていないというのに、ご丁寧に今日も猛暑だ。こんな日は早く家に帰って冷房の効いた部屋でガリガリ君ソーダ味でも食べたい。
ところが、そういうわけにはいかなかった。教室を出る直前、三年生を担当する先生が一年の教室にやって来て、こんなやり取りがあったのだ。
「磯村和樹くんはいるか?」
「あ、はい、僕ですけど」
「申し訳ないんだが、花沢の家にプリントを届けて欲しいんだ」
「花沢、先輩に、ですか?」
中学三年の花沢先輩すなわち花沢加奈ちゃんは、二つ年上の幼馴染で、うちの隣に住んでいる。その情報は校内に知れ渡っているらしく、ほぼ面識のない先生でさえ、わざわざ僕に頼みにきたようだ。
「花沢先輩、どうかしたんですか?」
「風邪で欠席したんだ。で、お願いできるかな」
断れるわけがない。これはパワハラだ。そんなことを思いながらも僕は快く手紙の束を受け取った。ただしそれは、あくまで表面上の態度だ。実際には、加奈ちゃんの家への配達なんて引き受けたくはなかった。
加奈ちゃんとは家族ぐるみで付き合いがあって、物心がつく前からいつも一緒に過ごしていた。それこそ一緒に昼寝をしたり、一緒にお風呂に入ったりしたこともある。とはいえ、そんな関係がいつまでも続くわけがなく、お互いの成長と共に接する機会は減っていった。いいや、もっと正確に言うならば、接しづらい間柄になってしまっていた。
特に僕が中学生になってからはその傾向はより顕著で、人前では加奈ちゃんのことを「花沢先輩」と呼ぶよう気を張っている。中学校には暗黙のヒエラルキーがあり、上級生を崇めなければならないのだ。またもう一つ、男女は対立すべし、という暗黙の掟もあって、女子のことを「ちゃん」付けで呼ぼうものなら、友人達からカンチョーの刑を処されてしまう。
もし加奈ちゃんが真っ赤な他人であったならば、当たり前のように先輩と呼べただろうし、躊躇うこともなく事務的に手紙を届けられただろう。けれども、仲が良かったという過去を消すことはできないため、僕は、加奈ちゃんと接触せざるを得ない度、細心の注意を払って丁度良い距離感を模索している。
要するに、気疲れするのだ。加奈ちゃんの家に行くのは。
そうはいっても引き受けた仕事は速やかに遂行しなければならない。下手に二の足を踏めば、どこかの誰かに「和樹は女子を意識している」と思われかねないからだ。さっさと行くしかない。さっさと。
自宅に立ち寄らず、直接加奈ちゃんの家へと向かう。ピンポンを押すと、加奈ちゃんのお母さんが玄関から顔を出した。
「あら、和樹くん。うちに来るなんて久しぶりねえ」
「え、えっと、花沢先輩にプリントを届けに来たんです」
「それは暑い中ご苦労様。じゃあ、ジュースでも飲んでいきなさい」
じゃあってなんだよ、と疑問に思ったものの何も言い返すことができず、僕はリビングに引きずり込まれてしまった。
世の中のお母さんという生き物は僕にとって最大の難敵だ。できる限り関わりたくはないが、とりあえず家の中に入ってしまったからには、適切な早さでジュースを飲み干して、適切なタイミングでお礼を言うしかない。
よしっ。覚悟を決めた時、加奈ちゃんのお母さんは350mlのペットボトルを二本手に取り、意外な提案をしてきた。
「じゃあ、加奈にも持っていって」
だから、じゃあってなんだよ。当然ながらそんなことを口にできるはずもなく、僕は無言で二本のポカリスエットを受け取った。
「あの子ね、熱を出して寝込んでるくせに、ヒマだ、ヒマだってうるさいのよ。和樹くんの顔を見れば少しは落ち着くと思うのよね。じゃあ、よろしく」
だから、じゃあって……
軽く扉をノックしてから部屋に入る。すると、パジャマ姿の加奈ちゃんは、掛け布団で胸元を隠しながら身体を起こした。
「やあ」
「やあ」
ぎこちない挨拶。
加奈ちゃんは、汗ばんだ額に貼りついた前髪を払い、適当に髪型を整えた。学校では長髪の女子は三つ編みか一つ結びにしなければならないので、髪を下ろしている姿を見るのは久しぶりだ。
「で、和くん。何しに来たの?」
「プリントを届けに。それと加奈ちゃんのお母さんから、これ」
ペットボトルを差し出すと、加奈ちゃんは奪うようにそれを受け取った。どうやら、僕が来たのは迷惑だったみたいだ。
空気を察しはしたものの、入室して数秒で部屋を後にしたのでは、再び加奈ちゃんのお母さんに捕まってしまうかも知れない。少なくとも、ポカリくらいは飲み干したほうが良いだろう。そこで僕は、「飲んだら帰るよ」と断りを入れ、壁際で体育座りをした。
しばし無言。二人してチビチビと飲む。
そんな状況に居た堪れなくなったのか、唐突に加奈ちゃんが口を開く。
「ねえ、和くん。さっき、うちの親の前で花沢先輩って言ってたでしょ?」
「なんだ、聞こえてたんだ?」
「まあ、ね……でさ、うちに来てまでその呼び方は変じゃない?」
「そうかなあ。中学生になったし、加奈ちゃんって言うほうが変だよ」
加奈ちゃんは納得がいっていないのか、眉根を寄せて首を傾げた。
「中学生になったことと、呼び方を変えることって、関係ある?」
「加奈ちゃんは分かってないなあ。これはね、センシティブな問題なんだ」
「なに言ってんの?」
突き刺さるような視線を向けられる。僕は、軽く咳払いをし、人差し指を立てて説明を始めた。
「男には、変わらなければならない時があるんだ。いつ変わるべきか、それは誰も教えてくれない。だから、変化のタイミングを自分で探らないといけない。中学入学、これは、切っ掛けに相応しい」
僕の真剣な口振りに対し、加奈ちゃんは嫌味っぽく返事をした。
「はあ、さようですかぁ。呼び方一つで大変ですねぇ」
呼び方だけではない、と頭の中で反論する。
僕は現在、変化のタイミングの問題をいくつか抱えていた。例えば、パンツ問題だ。僕は未だグンゼの白ブリーフを履いているのだけれど、なんと友人達は、いつの間にかにトランクスやボクサーパンツに切り換えていたのだ。きっと、あいつらは母親に「中学でブリーフなんてダセえよ」とでも言って、入学前にパンツを買って貰ったに違いない。
他にも、一人称を「俺」にするべきか否かの問題など、いずれも僕にとっては大きな悩みだ。けれども、このことを加奈ちゃんに伝えたところで、どうせ共感なんてして貰えないだろう。
「加奈ちゃんはホント分かってないなあ。結局さ、女子は男の苦悩や哀愁といったものを理解できないんだよ。分かり合えない生き物なんだね」
「はいはい……なんか、和くんの話を聞いてたら頭が痛くなってきたよ」
また嫌味か。一瞬そう思ったけれど、その表情は本当に辛そうだった。そこでようやく、加奈ちゃんが風邪っぴきだったということを思い出す。
「あ、ごめ。大丈夫?」
「うーん。ちょっと熱が上がってきちゃったみたい」
幼かった頃の僕であれば、体温を確かめるために加奈ちゃんの額に手を当てていただろう。でも今は、触れたりなんかできない。だからといって発言を聞き流すのも失礼かと思い、僕はそっと尋ねた。
「熱冷ましの薬はないの? あるなら持ってこようか?」
加奈ちゃんは、「あるけど……」と呟き、チラと勉強机のほうに視線を向けた。釣られてそちらを見る。
そこには、『頓服/解熱剤』と書かれた白い紙袋が置いてあった。
「なんだ、ここにあるんじゃん」
そう言って、加奈ちゃんに紙袋を渡す。
紙袋を受け取った加奈ちゃんは、それをギュッと握り締めた。
「ありがと。じゃあね」
「え? 水を汲んでくるよ」
「いらない……」
どういうわけか、加奈ちゃんは突然しおらしくなった。
疑問に思った僕はその様子をじっと見つめ、そして気付いてしまった。加奈ちゃんの手にした紙袋には、小さく、『座薬』と書いてあったのだ。
「あ」
思わず零す。
「もう帰って!」
加奈ちゃんは顔を真っ赤にして大きな声をあげた。
結局、僕は部屋を追い出されてしまった。
自分の家に向かって歩きながら考えを巡らせる。確かに、『座薬』は少し恥ずかしい。お尻に物を入れるなんて僕だって嫌だ。だからといって、あんなムキになって怒る必要があるだろうか。少なくとも、僕は何も悪いことをしていない。
いささかの理不尽さを感じ、更に頭の中でごちる。せっかくなら、「お手伝いしましょうか?」って嫌味でも言ってやれば良かったかな。
加えて、「ほらっ、加奈ちゃんにカンチョーの刑だ!」なんてことも考える。
すると、なぜだか、とっても、ドキドキした……
その日の夜、僕はおかしな夢を見た。
それは、ロケット花火がドピューと飛んで、パンッと弾ける夢だった。
(了)
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