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2 旅の始まり
休日の午後、サイレンの音が近づいてきたと思ったら、パトカーが家のすぐ前に停まった。
そのとき、洋治は自宅の窓からのんびり空に漂う雲を眺めながら、俺もとうとう六十になっちゃったなあ、と感慨にふけっていた。
長い人生、これまでにいろいろなことがあった。
洋治はシステムエンジニアとしてこれまで会社に仕える人生を送ってきた。
システムエンジニアといえば、情報社会の先端にいる花形のように思えるが、光を浴びるのは一部の限られた人に過ぎない。
仕事に費やす時間は不規則極まりなく、おまけに依頼主から責められ叩かれることばかり。
そんな、専門スキルよりも忍耐力がものをいうような過酷な環境に悲鳴をあげ、それでも苦労して苦労して、そしてやっと完成したシステムがうまく動き始めたときの、可愛いわが子が初めて立ってヨチヨチと歩き出したような喜びが捨てがたくて、大方の人は何とかその仕事を続けている。
洋治も例外ではなく、腹に据えかねる出来事に出合うこともあった。
しかし、その持って生まれた物静かで争いを好まない性格が、この世界を生き抜くことができた理由だったのかもしれない。乱れそうな心の波も少し待てば引いていくことを覚えて、感情を爆発させることもなく、身を低くして荒波をかいくぐってきた結果、こうして六十の坂までたどり着くことができた。
洋治は、羊毛を思わせるやや縮れた、それでいて柔らかそうな髪のせいもあって、かつての職場で『ヒツジさん』という愛称で呼ばれていたが、その荒波の中でも良心を裏切るようなことは一切せずに、ヒツジの愛称そのままにここまで来られたことを少し自慢に思いながらも、素直にその幸運に感謝していた。
だから突然、『国家安全管理局の職員』と名乗る黒服の男たちが警官を伴ってやってきて、あなたを護送しますと連れ出されたときには、やましい世界とは縁がないはずの自分が何でこうなるのかと、驚き戸惑うばかりだった。
それでも、何も身に覚えのない洋治は、すぐに何かの間違いだとわかって解放されるに違いないと、あまり心配はしていなかった。
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