レンタルしたのは大きな鏡

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レンタルしたのは大きな鏡

 僕は返せないものを借りてしまって後悔している。いや、返すつもりだけど、返すことはできるだろうか? あれはあまりにも魅力的で手放すのが惜しい。  あの鏡。みすぼらしいパジャマ姿の自分が映って、慌てて寝室に引き返す。早くそれなりの清潔な服に着替えなければ。  撮影小道具店でレンタルしたのは大きな鏡。ダンス用のミラーパーテーション三連。一枚は幅80センチ高さ190センチ。それが三枚あるので、横幅だけでも二メートルあまりある。リビングに置かれたそれを見つめると下腹部がうずくのを感じた。ダンス部の娘のために設置したそれが、室内の蛍光灯を反射して僕に嫌らしく微笑みかけてくるようだ。  娘が来るのは来週。レンタル期間は一ヶ月。  お気に入りのニット地のタートルネックのトップスに着替えながらリビングにテレビよりも大きな鏡が居座っていることに胸をときめかせる。  ああ、なんてみっともない姿を晒してしまったんだろう。寝起きの僕は貧相でとてもじゃないが見れたものじゃない。黒のコーデュロイを穿こうとして、僕の男性器が硬くなっているのに気づいた。僅かばかりの羞恥を感じる。僕は鏡が怖いのかもしれない。僕の全身を映し出し今の僕を僕自身に確認させてくる装置みたいで。  寝室の衣装箪笥から離れて恐る恐るリビングに戻る。僕は鏡の前で不安げに立つ痩躯の男を見るのだろう……。廊下からひょっこり出てきた猫背の暗い男がミラーパーテーションに映る。できるだけ目を逸らさずに鏡に向かう。  髪が寝癖で跳ねているが、どんどん大きな像となって僕が僕に近づくと、狂おしいほどに自分を守ってやりたい不思議な感情が芽生えた。女性の母性とはこんな感情のことを言うのかもしれない。  大きな鏡の中に映る僕に息を止めさせる。さっきまで僅かに上下に起伏していた肺の動きがなくなって、肩もなだらかになる。昨日剃った髭が伸びていて輪郭が青ざめている。そのせいか、元々落ち窪んだ目が悲しげだ。 「僕の中にあの人はいるはずなんだ……」
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