鏡の中

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鏡の中

 あの人は今どこにいるんだろう? 僕は別れた彼女のサチを想って鏡に寄り添う。肩から鏡に触れる。冷めた表情の僕が僕を見下す。ニット地の上からでも鏡の表面が冬の冷気で冷えているのが伝わる。そうだ、暖房をつけるのを忘れた。そんなことは、どうでもいい。僕は自分の鼻息が鏡を曇らせるのを見、鏡の中僕がそれに満足して微笑む。  ああ、僕の息子が疼くのを感じる。僕は鏡の中に吸い込まれたいと思いながら僕の顔を撫でる。サチが以前そうしてくれていたように、剃り残した髭があるとサチは怒るから。僕はサチのものだった。サチが望むから髭を剃った。サチが望むから真っ黒な地毛を明るい茶髪に染めた。サチが爪を綺麗にしてあげるというから、勝手にレブロンの透明ネイルを塗られた。僕の服がダサいと言うからサチのためにタートルネックのトップスを買った。  なぁ、サチ。君は僕の気に入らないところを全て修復していった。それなのに、どうして出ていった?  僕は鏡の中の餓えている僕の目を見る。大丈夫。僕には僕がついている。鏡に頬をつけると、もちろん鏡の中の僕も頬を僕にぴったり貼り付ける。  舌を這わせると、鏡の中の僕と舌の先端がぶつかる。ひんやりして味はほんのり匂う薬品のような無機質な味だった。  当然、舌を絡ませる……なんて芸当はできないので、唾液を塗りたくっただけだった。だけど、鏡の中の僕はずっと僕を求めていて。いや、正確にはサチを? 僕は鏡の中であられもないようなことを仕出かす。
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