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1 婚約破棄された私の誇り
「もう我慢がならない。君といると婚約者じゃなくメイド長の機嫌を取っているみたいな気分になるよ。おとなしい壁の花だと思っていたら大間違いだった。壁の花を通り越して、まるで陰気なくせに出しゃばりな古参メイドだな。私は人間だ。人間以下の妻など価値がない。むしろ負債だ。笑い者になるよ」
「なんですか?」
私は怒りを抑えられなかった。
「君はどう見えようと伯爵令嬢だ。発言を許そう」
「あなたのお話を真に受けると、まるでメイドたちが人間ではないようなお考えをお持ちだと思わざるを得ないのですが」
「そう言った」
「……」
私は無意識に大きく息を吸った。
抑えられない怒りは、私に冷静になれと命じていた。
「呆れたな。君は自身が侮辱された事に対してではなく、ありもしないメイドの名誉のために義憤にかられたのか? 愚かだよ。あれらは道具だ。君は本当に、貴族失格だ」
「人間です」
「メイドみたいだと言われて気にならないのか?」
「私を育ててくれたのは乳母です。私が生きているのは、毎日、朝から晩まで厨房で作られる料理人たちの料理を食べてきたからです。私に対する侮蔑のつもりでしたら、空振りです。メイドだけでなく使用人すべて、道具ではありません。共に生きている、家族です」
「君には誇りというものがないんだな」
握りしめた拳がふるえる。その拳をドレスの襞に隠し、私は目を伏せた。
分かり合えない。
それが早くにわかって、とてもよかった。
「悪いが、婚約は破棄させてもらう」
「……はい」
「さっさと没落するといい。お望み通り、腕のいいメイドになれるだろう」
こうして私はアダン伯爵から婚約を破棄された。
私が貴族らしくないとか、使用人との距離が近すぎるとか、洗練されていないという理由だ。意外なのは、体形についての言及がなかった事。
けれど彼は正しい事を言った。
私は自分が侮辱されたと感じてはいなかった。
屋敷に帰ると、私は厨房に直行した。
「お嬢様!? お嬢様、どうなさったんですか!?」
使用人が慌てているのは、私が厨房に飛び込んで我が物顔で小麦粉と塩と砂糖と卵とミルクを混ぜ始めたからではない。私が無言で憤怒しているからだ。
「お嬢様……?」
「きっとなにかあったのよ」
「では、私たちは一応、このまま下拵えを……」
遠巻きに話し合いながら、私の傍にほどよい量のバターが備えられた。
婚約は破棄された。
でも命がある。だから私は、焼くのだ。明日の命になる、今宵のパンを。
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