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9 熱く甘く求められ
私だけの厨房。
それは楽園だった。
これほど生きている事を実感した事はなかった。
私は、私自身だけではなく、モンソンの魂を着るようにして、ヨセフ殿下のためにまずプティングを焼いた。甘い香りが立ち込めるにつれて、3人の殿下の甘い溜息と歓声が届く。それを耳にするたびに、妙な事態ではあるけれどこれが使命なのだと心が燃えた。
かつてのモンソンも、こんな気持ちで私にプティングを焼いてくれたのかもしれない。私の丸々とした手に、モンソンの節くれ立った老いた手が重なり、今もまた生きることを教えてくれている。
そんな気がした。
「ヨセフ殿下、どうぞ」
テーブルに3人分のプティングと紅茶を並べる。
戦場さながら『わんぱく3剣士のマジパン』は跡形もなく消えていた。
「ふあぁっ! シュガー、君を愛してる!!」
正気を失ったヨセフ殿下の歓声に、私は膝を深く折って挨拶するに留めた。殿下が愛を叫んでいるのは、私に対してではないのだ。私が蘇らせたモンソンのプティングを、殿下は愛していらっしゃる。それは、私も同じ気持ち。謂わば私たちは、同士なのだ。恐れ多いけれど、甘い焼き菓子の前にはゆるぎない事実だった。
「アンバー。君の分がない」
フェリクス殿下が匙を掴もうとした手を震わせて耐えながら、私を見た。
私は小さく首をふって答えた。
「まだ仕事が」
「君は料理人ではないと言っただろう」
「ふんあっ! 我慢できない! 神に感謝シュガーに栄光あれ!!」
クリスティアン殿下が仰のいて叫び、飢えた獣のように、或いは天真爛漫な童子のように、プティングに全身全霊を注いだ。近くにいたので、大迫力だった。
そしてその頃にはヨセフ殿下が完食し、恍惚の表情を浮かべていた。
残るはフェリクス殿下のみ。
「さあ、殿下。私は、次の──」
「シュガー! クグロフ!! クグロフを頼む!!」
「ああっ、あとババロアが食べたい! それとタルト! タルトタルトタルトォォォォッ!! ……果物のやつッ」
クリスティアン殿下とヨセフ殿下は鼻息を荒くして悶え、その瞳はまるで熱く愛を叫ぶかのように燃えていた。
「順番に焼きます」
湧き上がる使命感に、私は奮えた。
歓声を糧に踵を返そうとした私の手首を、フェリクス殿下がふいに掴んだ。
「?」
「待ちたまえ。あーん」
フェリクス殿下が一口分のプティングを掬った匙を、私の口に宛がう。
「!」
あまりに近すぎて、最早、回避することは不可能だった。
あろうことか、私はフェリクス殿下の手から、ものを食べたのだ。
「…………」
世界は音を失くし、代わりに、薔薇色に染まった。
まるで私を囃し立てるように、異国の殿下たちが恍惚とした笑顔で語り掛けてくる。けれどそれは、混ぜ始めた卵と小麦粉のように粘ついて、意味がわかならなかった。
「君をお抱え料理人にしたいわけではない。次は、座ってくれ」
フェリクス殿下の声だけは、なぜか鮮明に、耳に届いた。
「召し上がってください。モンソンのために」
なんとか声を絞り出して、手を引き抜くと、私は与えられた小さな厨房へと飛び込んだ。そして閉めた戸に背を預け、胸を押さえる。
窯に入れられた生地の気持ちが、よくわかった。
私は、焼き上がってしまう。
それはとても恐れ多く、分不相応なことのように思えた。
殿下のお抱え料理人シュガーとして宮廷に仕えたほうが、ずっといい。
「クグロフ……クグロフよ、アンバー」
自らを鼓舞して小麦粉のほうへと足を踏み出した時、扉が開いてフェリクス殿下が厨房へと入って来た。その向こうからは、クリスティアン殿下とヨセフ殿下の、それなりに興奮した歓談が洩れ聞こえてくる。思い出話のようだ。
クリスティアン殿下が詰め寄ってくる間、私はどうすることもできずに殿下を見あげていた。殿下は私の両手を大きな手で包むと、言った。
「ムースも、頼む」
熱く甘い囁きに、私は答えた。
「はい」
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