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2 心を熱く膨らませ
4才の冬の日、両親が消えてしまった。
死んでしまったのだと理解するのに時間がかかった。
二度と会えないとわかったとき、私の心にはぽっかりと大きな穴が空いて、世界は永遠に寒いままだと確信した。
ただ、屋敷の中の誰もがその穴を埋めようと、優しさを注いでくれているのもまた理解していた。互いに埋まらない穴と、そこに吹き抜ける冷たい風をどうにかしようと気を揉んでいた。
そんな私に寒さを忘れさせてくれたのが、度々供される甘い焼き菓子だった。
ケーキ、クッキー、マフィン、マドレーヌ、エクレア、シュークリーム、タルト、パイ、ムース、メレンゲ、魔法のように甘く優しい香りが私を包んでくれた。
私がその秘密を暴こうと厨房に下りて行ったあの日の事はよく覚えている。
今思えば、宝探しだったのだ。
そこには白い髭をちょっと縛った老人がいた。
祖父と同じような人に見えた。でも魔法使いだと思った。
置いてあった椅子によじ登り、彼を眺めた。彼は私が見えないふりをしていた。思った通り、彼のゴツゴツした太い指はいろいろな工程を経て、私のよく知る焼き菓子を生み出した。
そして、ずっと見えないふりをしていたはずなのに、風のように私の前に跪いた。カスタードプディングが白いお皿の上で煌めき、揺れていた。
私は匙をとった。
一口含み、私は喜びでぷるぷるとふるえた。
それで彼──ヴィリアム・モンソンと初めて笑みを交わしたのだ。
祖父のように優しい目をしていた。
「おぉ~ちょちょちょちょちょッ」
私が初めて聞いた、彼の声。
厨房に通いつめ、運ばれて来る前に出来立てを食べるようになっていた私は、指定席になっていた椅子からあるとき思い付きで下りてグレーターを手にした。レモンケーキを作っているとわかっていたので、レモンの皮をすって手伝う気満々だった。彼が軽々と使いこなす4面のすり金は、とても重かった。
主の娘が刃物を手にしたのだから、彼の焦りは尤もだった。
成長するにつれ申し訳なく思ったけれど、あれが始まりだった。彼は私が孤独を感じなくてすむように、或いは楽しむために、私に技のすべてを教えてくれた。甘い焼き菓子だけではなく、命の糧となる、パンの焼き方も。
彼が引退した宮廷の料理長だと知ったのは、9才の秋だった。ただの厨房に住む優しくて無口なお爺さんではなかったのだ。
彼が亡くなった15才の夏に、私は厨房に篭りパンを焼き続けた。
何度でも、何度でも、パン種は熱く命を膨らませ、生きる力を与えてくれる。生涯を通して彼は生きる事を教えてくれた。力尽きて粉だらけの床に跪いた時に、私は、確かに泣いていた。けれどそれは、悲しいだけの涙ではなかった。
私はあまり見栄えがいいほうではないし、人生の多くを厨房で粉塗れになって生きてきたので洗練されていないと言われればそれまでだ。
婚約を破棄された今、私が悲観するのは私自身の事ではなかった。結婚相手が貴族である以上、彼らは、厨房は人の住むところではないと考えている可能性が高いという事。
それなら、私は生涯独身でいい。
命を生み出す農民たちの暮らしが少しでも良くなるように、腕のいいパン職人やケーキ職人が暮らしやすくなるように、祖父の仕事を学び引き継いでいく。
そう覚悟を固めた矢先、追い打ちをかけるように訃報が届いた。
宮廷の料理長ウィリー・モンティスが滑落事故で帰らぬ人となった。彼はモンソンの弟子であり、その死に方は私の両親と同じ。婚約破棄よりよほど応えた。
数日後、宮廷からの召喚状が届いた。
「……なんてこと」
モンティスがモンソンから伝授された秘伝のレシピを再現できる料理人を求めているという。
「これはお前の事だな」
「お祖父さま……」
こうして私は思わぬ形で宮廷に赴く事になったのだ。
ボンフィス伯爵令嬢ではなく、隠されてきたモンソンの愛弟子として。
婚約より、ずっと、胸が躍った。
命が熱く、熱く、膨らみ始めた。
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