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3 憧れの庭に集い
当然ながら宮廷の料理人たちは皆平民なので、委縮して腕を発揮できなくなると困るという事で、私は身分を伏せて厨房に入る事となった。
屈強なパン職人から焼き菓子担当のメイドまで併せ、常時300人の料理人が働く厨房は、実に活気に溢れ現実的に暑かった。
「へえ、ボンフィス伯爵家の料理長ってのは女なんだな」
「けっこう若い」
「令嬢がひとりいらっしゃるよな」
「いいなぁ。殿下と同じババロアを食って育ったんだろ?」
「どんな方だろうな」
今、目の前にいます。
「どんな方なんだ? 今じゃあんたの菓子を召し上がってるんだろ?」
「……はい」
ここで私ですと言ってしまっては、すべてが台無しになる。
モンティスはモンソンのレシピを抱え込む事で重宝されていた上、健康志向で甘い焼き菓子を控える傾向にあったそうで、結果的には死を悲しまれないくらいには仲間に嫌われていたようだ。
加えてモンソンが料理長だった時代に下積みだった料理人たちが今では中堅以上となっていて、モンティスを煙たがりモンソンを懐かしんでいる。彼らは私と共にレシピ再現に取り組むのだけれど、突然現れた私に驚くほど寛大だった。それもそのはず。聞けば、引退したモンソンがボンフィス伯爵家で新たな弟子を育てたはずだと進言したのは彼らだった。
彼らが、私をモンソンの庭に招いてくれた。
彼らを騙すのは気が引けたけれど、国王陛下の意向だから仕方ない。
近隣諸国を招いての祝宴まで一月半。
モンティス派の料理人たちに些細な嫌がらせを受けながら、私たちは残された記憶と調理器具、そして不明瞭なスケッチなどからレシピの再現に励んだ。
トルネル、ブロリーン、テディ、ベルマン、オットソン、スヴェン、トール、バルタサール、そして私の9人が中心となり、かつてモンソンが料理長を任されていた時代を懐かしむ者たちや、憧れたりする見習いまで巻き込んで、最後にはまるでお祭りのような騒ぎになっていた。
ひょっこりと鋭い眼光が厨房に差し込まれたのは、祝宴を1週間後に控えた昼下がり。ちょうど適当に腰掛けて昼食をとりながら談笑している最中の事。
「シュガー?」
と、その眼光の主は低い声で問いかけて来て、
「えっ、殿下ッ!?」
バルタサールとテディとトールが巨体で飛び跳ねた。
私も齧ったキッシュをお皿に置いて、慌てて立ちあがる。
艶めく髪と、すらりとした鼻梁に切れ長の目を持つ背の高いその人は、他の誰でもない、王太子フェリクス殿下。
「懐かしい匂いだ」
素っ気なくそう呟いて殿下は厨房に入って来てしまう。
妙な焦りと混乱に私は俯いて手を揉み合わせた。
かつて、私が厨房に突入したときのメイドたちもこんな気持ちだったのだろうかなんて一瞬考えたけれど、相手は王太子殿下だ。驚きは、私の比ではないはずだ。
殿下は私たちの顔をさっと見回し、その視線を私で止めた。
「君は孫か?」
「!?」
驚いて、つい顔をあげてしまった。
怜悧な瞳に見つめられ、まるで、蛇に睨まれた蛙……
「シュガーは額の左側によく粉をつけていた。生地を叩くとき、利き手を対角線上に構える癖があった。君は同じ叩き方をしている。そうだろう?」
「……」
殿下はモンソンを知っている。
私より前に、彼の背中を見ていたのだ。
「はい」
「えッ!?」
つい答えてしまったら、ベルマンが驚きの声をあげた。
そうだ。
いけない。
これ以上、嘘を重ねるのはよくない。
しかも相手は事もあろうに王太子殿下なのだから。
私はすぐに膝を折って深く頭を垂れ、丁寧に詫びた。
「申し訳ございません。懐かしさについ、お返事を致しました。私はモンソンの孫ではございません。引退後に教育を受けた者にございます」
「……」
沈黙が返ってきて、機嫌を損ねてしまったかと恐る恐る伺うと、殿下は怜悧な眼差しを更に冷たく眇めた。
「君は本当に使用人なのか?」
「……」
沈黙の意味を捉え違えていた。
国王陛下の思惑は、王太子殿下までは行き届いていないようだった。
言い淀んでいても、助け舟は期待できない。
「申し訳ございません」
と、更に姿勢を低くして詫びるほかない。
殿下は素っ気ない口調にわずかな焦りを含んで言葉を重ねた。
「少しきつく言い過ぎた。すまない。待っていたよ、シュガー。待ち焦がれていたんだ。頼む、プティングを焼いてくれ」
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