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4 シュガーを待ち侘びて
「ああっ、絶品だ……ッ。最高だよ、シュガー」
間近で手元を覗き込むように殿下に貼りつかれたままプティングを焼いて、やっと安堵できたと思ったら、私一人、庭園に伴うよう言われた。給仕をさせるのかと思ったら、違った。小さな池の見渡せる東屋で、私を斜向かいに座らせて、上品な顔にそぐわない勢いで、吸い込むようにプティングを完食して殿下は言った。
「君はボンフィス伯爵家の令嬢か?」
「!」
ぎくりとした。
その態度で肯定していた事に、直後、気づいた。
殿下は大きな両手で器を包んで俯くと、わずかな沈黙を挟んだ。
心地よい風に乗って花の香が吹き抜ける。
水草が揺れて、鴨の親子が通り抜ける。
沈み始めた陽の光が、水面で跳ねる。
「君の悲しみに、シュガーは寄り添ってくれたんだな」
「……」
意外だった。
殿下はモンソンと私の絆を、よく理解しているようだった。
「幼い頃、私はふたりの友人と兄弟のようにして育った。ひとりは戦火を逃れ亡命してきた同盟国の王子、もうひとりはまた別の国の王子で便宜上は人質だった。私は、彼らを元気づけたくて、魔法のような甘い焼き菓子を作る料理人を探し当てた。シュガーだった。シュガーと呼んだのだ。名前を知らなかったから」
そこまで言って、殿下は柔らかな笑みを口元に刻み、私が揉み合わせている手元の辺りを一瞥した。
「その頃もう髭は白かった」
私も微笑んでしまった。
モンソンは白い髭をちょんと結んでいて、それがとても、とっつきやすかったのだ。触ったり揺らしたり引っ張ったりしても怒らなかった。なすがまま。
あの髭を、殿下もご存知なのだと知ると、嬉しかった。
「調理長だから忙しかっただろうに、シュガーは私たち3人のわがままに応え、いつだって望む以上の焼き菓子を用意してくれた。もちろん、王族と使用人という立場がある。だがシュガーは、優しかったんだ。王子が喜ぶ事ではなく、こどもが喜ぶことをしてくれた。誕生日のケーキには、ジンジャークッキーと飴細工で作られたずいぶんと可愛いわんぱく小僧が飾られていた」
懐かしむ殿下の眼差しも優しい。
それを間近で見てしまって、私はまた俯いた。この状況自体、とても身の丈に合わないものだ。
「君は?」
「……え?」
尋ねられた事に遅れて気づき、結局また顔をあげた。冷たく見える美しい顔立ちは、私を横目に見下ろしていても、なぜか、優しかった。
「君もクッキーを焼いてもらったのか? 小さなプリンセスの」
「……あ、あの」
「女の子だと、いろいろ飾り甲斐があっただろうな」
と、徐々に私のほうへと体を向け直したかと思うと、殿下の目が潤んだ。
「もっと早く君を呼べばよかったのに、私は……シュガーと一緒に情まで失っていたのかもしれない」
「殿下……?」
「訃報を受け絶望し、幼い頃の日々そのものが失われたように思えた。私の心は凍り付き、ただ命を繋ぐ義務として食事を摂るようになった。ソルトはうってつけだった。シュガーから料理長の座を奪ったモンティスを、私たちはソルトと呼んで嫌った。忘れ去られて凍った真っ黒な冬のマフィンのようだった。君は、ソルトの訃報に駆けつけてくれた。あたたかな甘い心が帰ってきたようだ。ありがとう」
なんと答えればいいのかわからず、私は頭を下げた。
「シュガー。君の名前を教えてくれ。君の口から」
アンバー。
俯いたまま答えた。
「優しい名前だな」
風に乗る低い声のほうが、ずっと、優しく耳に響いた。
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