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第一章 出発 2
飲み会はそれから三十分ほどでお開きになった。
明日に備え恒例のカラオケボックスによる二次会もなく、みなそれぞれ家路に就くことになった。
その時にはもう、智司の妙な感覚はだいぶ小さなものになっていた。
会計の際に、小さなトラブルがあった。
入り口の外で待つ涼音が、これから店に入ろうという数人の男性客に声を掛けられたのだ。
みな二十代前半の、サラリーマンのようだった。
「ねえお姉さん、もう一度俺たちと飲もうよ。そっちの綺麗だけど派手なおばさんもどお?」
おばさんと言われた怜子が、即座に言い返す。
「うるせえぞガキ、行儀がなってないみたいだね。幼稚園から出直してきな」
「なんだとこのクソばばあ。ちょっとくらいいい女だからって、調子こいてると輪(ま)わしちまうぞ」
そこへ会計を済ませた男たちが出て来る。
「俺の女を輪わすって言ってるのは、一体どこのどいつだ」
いきなり大輔が、二人に脅しをかけた男の頭の毛を掴む。
「いてててっ」
掴んだまま、大輔がその頭を乱暴にグラグラと揺さぶる。
「ふざけんなてめえ、やっちまうぞ」
中でも一番質の悪そうなやつが、目を細めて一歩前に出る。
その男へ髪を掴んでいた奴を突き放すように押しやり、大輔がにやりと嗤った。
「相手してやろうか?」
大輔が身構える。
実にその恰好が様になっていた。
「兄さんたち、止めといたほうがいいよ。こいつ総合格闘技のアマチュア大会で優勝した事あるんだよ、いわゆる地下格闘技ってやつ。大怪我しても知らないぞ」
緊張感のない声で、雄太が警告する。
「総合か、道理で構えが堂に入ってる。俺はボクシングのインターハイ準決勝まで行ってる、どっちが強いか試そうか」
そういって、ファイティングポーズをとる。
その脇の締ったクラウチングスタイルは、言葉通りにボクシングの経験者らしい。
インターハイがどうだと言うのは眉唾ものだとしても、かじっているのは本当のようだ。
「あんたらいい加減にしてくれないか、店先で揉められちゃ迷惑だ。警察呼んだからね」
店長らしい中年の親父が、店内から出て来て大声を出す。
警察と聞いて若手サラリーマンらしき集団は、そそくさとその場から立ち去った。
「いやア店長さん、機転の利いた助け舟ありがとうございます」
笑いながら雄太が親父に頭を下げる。
「機転? なに勘違いしてんの。本当にすぐ警察来るからおとなしく待ってな」
「おいやべえぞ、マジで警官呼んだみたいだ。逃げろ」
大輔が麗子の手を取って、真っ先に階段を降りる。
咄嗟のことにどうしていいのか分からずにいる涼音の腕を掴み、智司も二人の後を追う。
この瞬間で、智司の既視感を伴った違和感は綺麗さっぱりと消えていた。
消えたこと自体気が付かないような、緊急事態だったのだ。
「おい、俺を残してくなって。あっ、今日はご迷惑おかけしました」
最後に雄太がもう一度親父にぺこりと頭を下げ、狭い階段を駆け降りた。
根っから人の良い男らしい。
五人はそのまま、駅の西口まで走り続けた。
途中で現場に駆けつけている途中らしい、二人連れの警官とすれ違った。
駅構内地下まで行き、やっと足を止めひと息つく。
「参ったな、警察沙汰になったら明日のお出かけどころか、ゴールデンウィーク自体がおじゃんだ。危なかった、危なかった」
いつものように真っ先に雄太が口を開く。
「怜子、お前切れるの早すぎ。ちょっとは我慢しろよ」
「あんたこそ手出すの早いじゃん、女連れの時は下手に出て穏便に済ますのが常識でしょ。いつもあんたが事を大きくするんじゃん、大して強くもないくせに意気がっちゃって」
「うるせえよ──」
大輔がそっぽを向く。
「大輔くん、格闘技のチャンピオンなんですか」
なにも知らない涼音が、おずおずと訊いて来る。
「ああ、あれは雄太のウソ。こいつ総合習ってたんだけど、練習が辛くてすぐに辞めちゃんたんだよね。なんでも三日坊主なんだ、でも構えだけは強そうだったでしょ。見映えはチャンピオン並なんだよこいつ」
そう言って怜子が笑い出す。
「俺も恰好には自信があるんだよな、それを雄太の口がフォローする。俺たちのいつもの最強スタイル」
一緒になって大輔と雄太も笑っている。
「えっ、ウソなんですか」
戸惑ったように涼音がぽかんとしている。
「で、でも本当の喧嘩になったらどうするんですか」
もっともな疑問を口にする。
「そんときゃ智司の出番だ、こいつは本当に総合やってたからな。俺と違って真面目に続けたから、そこそこいけるんだ」
「凄い、若林くん」
どこかしら智司を見詰める涼音の瞳に、尊敬らしき光がこもっている。
「そんな事ないって、まだ一度も実戦で使ったことなんかないんだ。うまく行くかどうかさえ疑わしいよ。そんなに期待されても困る、大体において平和が一番なんだから」
困惑したように、気弱そうな顔を曇らせる。
「いやいや、こいつ相当なもんなんだぜ。マジでプロの試合に出ないかって言われたことがあるんだから。テレビでも放送してる大きな大会だ」
「そうそう、涼音ちゃんも知ってるだろ〝グラッジ・ファイト〟」
大輔の言葉を継いで、雄太が番組名を得意そうに教える。
「ええ、見たことないけど知ってます。そんな試合に若林くんが?」
テレビで放映が近づくと、やたらとコマーシャルを流しているから、そんなものには全然興味のない涼音にも聞き覚えがあった。
「練習でこいつが勝ったことのある奴が、前の大会で大物食いをして一夜で有名になったんだ。その噂がテレビ局に流れて、二匹目のドジョウを狙ってのオファーが来たって言う訳。対戦相手は本場アメリカで売り出し中の、アルティメット無敗の有望株だったよな」
まるで格闘技などとは無縁そうな智司の柔らかな顔を見て、彼女は自分が揶揄われているのかと疑っている。
「あの時はなにかの間違いだったんだってば、俺がそんなのに選ばれる訳ないよ。それに俺は本気で他人を殴ったり、痛めつけたり出来る性格じゃない。この気質はどうしたって変えられない、勝負事には不向きなんだ。それにあんな狂暴そうな選手と試合なんて、下手したら殺されちゃうよ」
「へへ、それはホントの話しだ、試合前には念書を書かされる。万が一の事態になっても文句は言わないっていうね。早い話し身体が不自由になったり、寝たきりになっても構わないという約束さ。そこには死亡も含まれる、実際に死亡事故も起きてるしな」
大輔が真顔になり、低い声で涼音に言う。
「やだ、そんなの駄目だよ。ねえ若林くん、そんなの出ちゃ駄目だよ。死んじゃったらどうすんの」
大きな瞳に、みるみる涙が溜まってゆく。
「こら大輔、涼音ちゃんを脅かさないの」
そう言って、怜子が軽く大輔の頬にパンチを入れる。
「心配しなくて大丈夫、もう四年も前の話しなんだから。いまはもう智司もジムには通ってないから、安心しな」
ひく付きながらハンカチを取り出して目を押さえている涼音を、怜子が胸に抱え頭を撫でてやる。
しばらくそんな事を話した後、明日の待ち合わせ場所と時間を確認し、五人はそれぞれ家へと帰って行った。
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