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②
母との通話を終え、なんの解決にもなっていないけれど少しだけ落ち着くことができた。
家の方はなんとしてでも誤魔化そう。彼の方は──彼との約束については後で考えるとして、今日はこのままなにもなかったことにして帰ろう。それが今の最善のはずだ。
気持ちを切り替えるため、彼に気づかれないように短く息を吐く。
Ωが放つヒートフェロモンはαを誘う。優秀であるはずのαの思考力を奪い、獣のように目の前のΩを襲わせるのだ。ヒートフェロモンによって性被害にあうΩもいるけれど、中にはそれを狙うΩもいる。そのことからヒートフェロモンはΩにとって『害』でもあり『益』でもあるのだと誰かが言っていたけれど、僕はそんなのは『益』でもなんでもないと思っている。ヒートフェロモンで意中のαに襲わせるというのは、最も卑怯なやり方だと僕は思うから。
合意の上でないのなら、αが無理矢理Ωを襲うのとなにが違うと言うのだろうか。
だから、どちらともが被害者にも加害者にもなり得る。
今回の場合、僕がポンコツΩだったことで彼が疑われる可能性が高い。そうなれば、結果がどうであれ世間はあることないこと言うだろう。
僕がトラップを仕掛けたということはないけれど、彼もこうなることを望んではいなかったはずだ。だから今回のことは本当にただの事故なのだと思う。だとしたら最初からなにもなかったことにするのがお互いにとっての最適解のはずだ。
番になってしまえば普通は無理だけど、僕ならそれが可能だ。だって僕はポンコツΩ──だから。
僕なりに覚悟を持って、そう結論を出した。
彼の顔を見ることはできなかったけれど、「僕は帰る、から。山野くん、も」とだけなんとか伝えて、カバンに入れてあったタオルと制服を手に、水飲み場へと向かおうと教室を出た。
一拍置いて、焦ったような彼の声が背後から追いかけてくる。
「ま、待ってくださぃ──!」
僕は振り返り、笑顔で「心配しないで」と言おうとして、食い気味の彼の質問に阻まれた。
「心ぱ「確認なんですが、伊藤さんには、その……将来を誓い合ったお相手はいないんですよね?」」
現在彼がそのお相手、ということになっているけれど、実際は違うということは彼が一番分かってるはずで、僕はこくりと頷いた。
これは僕たちの最近の色々やさっきの夢にも関係していることで、前にも一度確認されていることだった。
「よかった……」彼はそう呟いて、更に「あ、あとそこまでいかなくてもいい感じのお相手も……?」と念押しみたいに訊いてきたので、再びこくりと頷いた。それでやっと彼は納得? したのか、満足げに何度か頷いて僕の手を取り水飲み場へと一緒に向かった。
自分でやるつもりだったのに彼は自分がやるってきかなくて、「冷たくてすみません。できるだけ寒くないように手早く済ませますから」そう言って濡らしたタオルで丁寧に僕の身体を拭き始めた。
少しだけ身体が震えてしまうのは、濡らしたタオルが夏とは言え夜だから冷たく感じたからなのか、抱いてはいけない感情のせいなのか、それとも──。
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