鶴、お貸しします

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 書類がないことに気付いたのは、会社に到着して、少ししてのことだった。 「――テーブルの上におきっぱだ!」  記憶をたどって思い出す。シゲオはなんとか会社を抜け出せば、急いで自宅へと戻った。幸い、会議までに往復できる時間はある。しかし会社を抜け出したことがばれたのなら、上司になんと言われるか。けれども会議の資料を忘れたままの方が、どうなるかわからない。  シゲオが自宅に戻ったのは、九時を過ぎた頃だった。慌てて鍵を開けて、ドアノブを握る。が。  ――鶴のお仕事時間は朝の九時から十七時の間のみになります! その間、あなたのために精一杯働きます! けれどもこの時間帯は、ご自宅には鶴のみの状態にしておいてください。我が社の優秀な鶴は、とても繊細なスタッフです。仕事している様子を、どうか見ないであげてください!  そういえば、鶴のレンタルサービスのチラシに、そんな注意書きがあったような。  ところがいまは、一大事である。人生がかかっているといっても過言ではない。  シゲオは一応、ノックした。 「鶴さん! 俺だよ、ごめん、ちょっと忘れ物しちゃたんだ。お仕事中で本当に悪いけど、一回家に入るね……」  焦りが、不意に好奇心の波に洗われる。あの鶴は、いったいどのように部屋を綺麗に掃除したり、洗濯したり、食事を作ったりしているのだろうか。改めて考えてみれば、おかしな話なのだ。鶴が家事代行をするなんて。  扉を開けると、そこに鶴の姿はなかった。美しいほどに整えられた部屋があり、中央のテーブルの上に、あの書類があった。シゲオはかけだし、手に取る。  鶴の姿は、ない。すぐに家を出ることは、ためらわれた。好奇心が背を押す。 「……鶴さん?」  耳を澄ませば、風呂場の方から音が聞こえた。水の流れるような音……風呂掃除をしているのかもしれない。  シゲオは足音を殺して、風呂場へと向かった。そこでふと、眉をひそめる。  水の流れるような音かと思ったが、どうやら違うらしい。なにやら、湿った何かをずるずると引きずるような音が聞こえる。どうしてか、背筋に寒気を覚えるような音で、すっと体温が下がっていくのがわかった。  ずるずる。べちゃべちゃ。ぐぎゅっ、ぐぎゅっ。  笑い声のようなものも聞こえたような気がした。何か、生き物が鳴いたかのような。鳥の鳴き声……だったかもしれないが、鶴とは、そんな鳴き声だっただろうか。  風呂場を覗いてはいけないような気がした。  それでもシゲオは、見てしまった。  曇りガラスの扉の向こう、黒い巨大な影があった。  扉が開く。粘っこい水音にも似た音があふれ出る。  黒い波。黒い。黒い? 泡。目。目? 笑い声。けけ。けけり。目。波。波。あぶく。広がる。広がる。黒。黒。見えない? 食欲。蠢く。泡。けけ。黒。けけ? 渦巻く。てけり。泡。広がる。口。口。 黒。黒。黒。けけり。け。泡。てり。波。滴る。り。てけり。蠢く。てけ。け。  * * *  SNSの海の中、一つのニュースが漂流している。  都内在住の男性死亡。交通事故。本庄繁男。会社員。奇声を上げながら家を飛び出す。三階から落下。走り続ける。車道。一度乗用車にはねられる。這いずり回る。軽トラックに轢かれる。「狂っていた」「普通じゃなかった」薬物乱用。過労。ストレス――。  一つの死亡事件のニュースは、瞬く間に情報の海に沈んでいき、藻屑となる。  そして海の底からは、別の話題が泡のように昇ってくる。 『レンタル鶴!子供にも好評で助かる~!うちの子、野菜嫌いのはずなのに鶴の作った野菜ソテーは食べてくれた!』 『鶴のお試しレンタルって、どこから連絡したらいいんや』 『いや家に鶴だけ残しておけって怖すぎ。もの盗まれそうじゃん』 『今日で鶴ちゃんとお別れ……今度またお願いしよう!』 『鶴って絶対鶴じゃないだろ、別世界から来たなんかじゃないの笑』 『鶴ちゃんと結婚したい・・・・・こんなお嫁さんほしいわ』 『もう一家に一匹鶴置こうよ』 『鶴、みんなを幸せにしてくれる、最高』 【鶴、お貸しします 終】
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