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冷たい銀色の鍵を摘んで、鍵穴に差し込み捻る。
カシャンと微かな音を立てたそれは、指先に微かな引っかかりが解けたような手応えを感じた。そっと引き抜き、革製のキーケースに戻す。まだ指先は冷たい鍵の感覚が残ったままで、なんとなく鉄のような金属独特の匂いさえ感じ取れそうなほどだった。
大丈夫、大丈夫。いるはずない。いるわけがない。
栄(さかえ)はそう何度も自分に言い聞かせながら一度ぎゅっと目を閉じた。しかし直後にそれを後悔する。そんなことをすると、瞼の裏にかつての記憶が映像として蘇ってしまいそうだ。
否、実際記憶が断片的に、より恐怖を感じた部分だけを切り取って呼び覚まされてくる。無意識に走り出した心拍が、その一瞬で一気に跳ね上がった。
ドクンという音は、聞こえるはずもない。しかし胸の奥を叩くように強まった鼓動は喉元まで衝撃を伝えてきた。それを鎮めるように、一度唾液を飲み込む。
大丈夫だ。ここにいるはずない。あいつがここを知る術なんてないのだから。
そう自分に言い聞かせていると、不意にマンションの隙間を強く細く縫う風が栄を拐った。突風のようなそれは生ぬるく、春特有の重たく分厚い感触がする。もうすぐ雨が降るのか少し湿気った香りがした。
「……ちがう。いるはずがない」
気がついたら一人、呟いていた。強く強くそう願うほど、もしもを考えて手が震えるのをなんとか叱咤した。大丈夫だ。あの女に自分の居場所を知られているはずがない。
冷たい感触のドアノブを、焼け焦がすくらい慎重に握って扉を開けた。まだ開け慣れない扉は音もなく開く。
開いて、まず玄関を見た。狭い三和土には一足、女性もののベージュのパンプスが行儀よく並べられている。
「ひ……っ!」
思わず悲鳴をあげて、栄は後ずさった。自分の家に女性もののパンプス。華奢なヒールのついた、自分は履くわけがない靴。
誰のだ。誰の。
そう思ったら一気に身が震えた。逃げ出したくて、でも震える足と『そんなわけがない』という思いが交差して体が硬直する。ちかちかとフラッシュバックする一人の女の顔。
「うわぁ……っ!」
思わず上げた悲鳴に、家の奥からバタバタと走る音が聞こえた。その足音を聞いて、栄は腰を抜かして玄関に座り込んだ。心臓の音が頭のすぐ側で鳴っているかのようにわなないて反響している。脳裏に浮かぶほとんど見たこともなかった顔の女が、泣き崩れているにも関わらず目の奥の狂気の光が鮮明に映っていたのが忘れられない。怖い。怖い。怖い!
「栄くん!」
しかし栄の目の前に現れたのは、思い浮かべていた女とは似ても似つかなかった。髪型も、体型も、顔も声も全然違う。走ってきた彼女の方に目を向けると、なんとスカートを履いていない、ストッキング姿のまま栄に近づいてきた。その姿に驚いて硬直していると、彼女は転ぶようにしゃがみ込み栄に目を合わせた。
「大丈夫!? どうしたの!?」
栄からすれば彼女の格好の方が『どうした?』といった状況ではあるが、きっと着替えの途中にも関わらず栄の悲鳴を聞いて飛んできてくれたのだろう。そう思ったらパニックは一瞬で収まり、笑いすら零れ落ちそうになった。
「ごめんなさい。ちょっと嫌なことを思い出しちゃって……もう大丈夫」
「本当に? 何か怖いことがあったんじゃないの?」
玄関に置いてあった彼女のパンプスで勝手に嫌な記憶を掘り起こされ、悲鳴を上げたのが今更ながら少し情けなく感じたけれど、目の前の彼女は真剣に心配してくれている。それを見ていたら、なんとなく落ち着いてきた。栄はゆっくり立ち上がると、しゃがみ込んでいた彼女に向かって手を伸ばした。
「ありがとう。依子さん」
言いづらかったけれど「着替え途中だよね?」となるべく小さく言うと彼女はそこで自身の格好に気が付いたらしい。薄いストッキングはたとえ腰回りは多少厚くなっている構造といえど完全に下に履いている下着が透けてしまっている。彼女はぽかんと下を見て「やば」と呟いた。栄は慌てて目線を逸らす。見てしまったものは仕方がないが、こんな格好のまま心配してくれたのが嬉しい反面申し訳なくなってきた。
「あははうける。すごい間抜けな格好だわ〜」
けれど彼女は全く気にする様子もなく、そのまま堂々と踵を返して家の中へと戻っていった。その背中をついぼんやりと見つめながら栄は一度視線を下に落とし、先ほどパニックを起こしかけた原因である依子のパンプスを見つめた。これはあの女の靴ではない。依子の靴で、これがこの家にあるのはごく自然なことだ。逆に言うと、この靴が玄関にあるのなら彼女が家にいてくれている証だ。そう思えば大丈夫。
自身に強く言い聞かせて、栄は靴を脱いで家に上がった。大阪からこの家にやってきて1週間。慣れるまでにはまだまだ時間がかかりそうである。
故郷の大阪で起きた事件は、栄の人生の舵を大きく切ることになった原因の一つである。当時高校三年生で受験が控えていた栄は受験にまるで身が入らないような事態に遭遇しており、心身共に磨耗状態だった。
端的に言うと、見知らぬ女からストーカー被害を受けた。直接話した記憶なんて全くない、30代の女は栄を付け回した挙げ句に合い鍵を勝手に作って家に進入すると、キッチンで料理をして栄を待ちかまえていたのである。両親が共働きゆえに栄の帰る時間にはいないことを、相手はもちろん把握済みだった。
不法侵入の罪で警察沙汰になり、表向きは解決したその事件。犯人の女はなぜ栄を付け回したかと警察に問われた時、栄を「隆くん」と呼んだ。どうやら以前付き合っていてこっぴどく振られた男性と栄が似ていたようで区別が付かず、たまたますれ違った時に栄を見て高校生の頃の隆なる人物が自分に会いに来た、と思ったらしい。
「隆とやらの写真見たけどね、全くあんたに似てへんわ。あの証言が嘘か本当かもわからへん」
親の欲目やなくあんたの方が全然男前やったわ。と、警察で話を聞いてきた栄の母が吐き捨てるように言ったが、一応事件の方は解決した。しかしそれで物事がすっきり終わるわけがないのである。
女性が怖いと感じるようになった栄は、そこから受験に集中することが出来なくなった。元々の第一志望であった大阪の大学はもう受験する気になれない。いつまたあの女と再会するかもしれないと考えると、早くこの土地を去りたかった。もう受験どころではなくなった栄を見た母は、後日一つの提案をしてきたのである。
「あんた、東京行くか」
どうやら栄にとって、はとこに当たる親戚が東京に住んでおり、栄の世話をしてくれるというのだ。一人暮らしをさせることは出来ないが、親戚との同居ならば東京に行くことを父も母も許すという。大阪から離れられるなら何でもいいとその言葉だけ聞いて、栄はすぐさま肯定の意を示した。受験は進路を大きく変えて東京の大学に決めて、死にものぐるいで勉強をした。結果東京に行くことは万事滞りなく決定したが、栄の中に大きな一つのしこりが残った。
栄は家に入る瞬間が、どうしようもなく怖くなってしまったのだ。いわばトラウマになってしまったのは言うまでもなく、事件の日、見慣れない靴が玄関にあった事を思い出してはリンクしてしまう。カウンセリングに通い恐怖心は多少柔らかくなったとはいえ、完全に払拭出来るものでもない。
心底東京では一人暮らしをする事にならなくてよかったと思う。誰もいないはずの玄関の鍵を開けるのが怖くて怖くて仕方がないのだ。
「玄関の私の靴、帰ってきたらしまった方がいいよね。ごめんね」
ストッキングを脱いで上下部屋着に着替えたこの家の家主である依子(よりこ)は、件の同居相手である。まだ20代半ばくらいであろう女性と同居する事に対しては正直なところ申し訳なさと引け目、それから女性が怖い栄からしたら決して最良の選択ではないような気がしたが、とにかく大阪から去れるかつ、信頼のおける人物との同居を断る選択なんて、栄の中には無かった。
「いや、毎回それをさせるのは悪いよ」
同居初日に家で敬語は面倒だろうから使わなくていいと言ってくれた依子に甘えて砕けた話し方をするのは少しだけ慣れてきた栄だったけれど、未だに帰宅時の玄関の恐怖が拭えなかった。依子と住んでいることや彼女が仕事に履いていく靴も見ているし、変則的なシフト制の仕事をしている彼女が栄よりも帰宅が早い日があることだって十分わかっている。わかっているけれど、体がそれをうまく飲み込んでくれないのだ。
夕食は依子がさっと作ってくれた野菜炒めをインスタントラーメンに入れたものだった。元々ご飯と味噌汁、それから野菜炒めのメニューだったらしいのだが、栄を慰める為に急遽ラーメンにしてくれたらしい。男の子ってなんかラーメン好きじゃん。とやや偏見気味な依子の言う通りで、悔しいがそれだけで栄の気分は本当に微かだが上昇する。
「でも毎回家に帰ってくるだけなのに怖い思いしてるのもかわいそうだもんなぁ」
「大丈夫。もうあの靴は依子さんのって理解しているから少しずつ慣れてくよ」
「もっと慣れなきゃいけないことも多いのにね。学校生活とかさ」
「その辺も大丈夫。女の子と連絡先交換とかしなければ支障ないし」
「そっかぁ……」
依子が哀れんだ目で栄を見ているのが手に取るようにわかったが、あえてスルーをして栄はラーメンをすすった。チープな味だがそれが疲れた心に染み渡っていく。
「迷惑かけてごめんなさい依子さん」
どうしても言いたくて、栄はラーメンをずるずるすすっている最中の依子のつむじに投げかけた。元々一人暮らしをしていた依子に母が持ちかけて同居を了承してくれたのだろうから、そのためにわざわざ彼女も引っ越しをしたと聞いた。栄のせいで、依子自身の生活環境も激変させているのは事実なのだ。
「ん? いいよ〜全然」
口の中のラーメンを飲み込んだらしい依子がふるふると首を振った。
「私もおばさんから栄くん分の生活費とか家賃とかもらっているし、そのおかげで広い部屋に引っ越し出来たしねぇ」
「でも折角一人でのんびり住んでいたのに」
「栄くんはイケメンなのに謙虚だよね」
「……」
答えにくい言葉に栄はつい黙る。過剰に自覚しているわけではないが、中学高校と告白される回数を鑑みても自覚せざるを得ない事実ではある。が、今となってはこの顔のせいでこんな目に遭っている気がして、若干の憎しみを感じている。
「茶化してごめんごめん。でも本当に気にしなくていいってば。なんなら下宿先の大家のおばさんくらいの気持ちでいてよ。緩くやってこう」
ラーメンのスープをどんぶりに口を付けて飲んでいる依子を栄はついじっと見る。年齢の詳細は聞いていないが恐らく5、6個しか年の離れていない、どうあがいてもおばさんには見えない瑞々しさを持った女性との同居なんてそういう設定の漫画のようなフィクション性を持っていて、きっと友人たちに話したら十中八九下卑た妄想の種になりそうな状況だろう。
けれど目の前の依子はどこかそういうネタにしづらい雰囲気を持っていた。魅力的な女性ではある。が、先ほどのようにストッキング姿でも平然としていたり、話し方の緩い感じが良い意味で栄を脱力させてくる。
「……うん」
素直に頷くと、依子は向かいのテーブル越しから手を伸ばして栄の頭を撫でた。ぐっと彼女の上半身が近づき、彼女の胸元が一瞬栄の視界にアップで映る。熱いラーメンを食べたが故であり、少し緩い襟元をした部屋着のせいもあるだろう。彼女の汗が一筋胸元に滑り落ちていったのが偶然見えてしまって、栄は先ほどとは別の意味で心臓が固く跳ね上げた。女性が怖いと言っておきながら、単純な自身の本能に辟易としてしまう。
「少しでも暮らしやすくいられることを願っているよ。心配事はすぐに相談してね」
「ありがとう依子さん」
「いいよ〜」
玄関については私もなんか考えておくね。と言って彼女はそのまま席を立った。基本、互いの生活にはあまり干渉しないようにするのがルームシェアの鉄則だろうと、栄も一人になった食卓で少し伸びたラーメンをすすったのだ。先ほどからうるさい心臓の音が彼女に知られたら恥ずかしいので、正直席を離れてくれて助かる。
暫く女性とは極力関わることはしないであろう栄にとって、この時点で依子は既に特別な女性であることに変わりはない。それが恋愛感情とは異なる感情かもしれないし、そうではないかもしれない。その辺りの判断をする余裕など、今の栄にはないのだ。
次の日、栄は大学で授業を終えてから玄関の鍵を開けた。徐々に大きく鳴っている心臓の音を無視しながら、一人「大丈夫」と言い聞かせつつ扉を開ける。確か今日も彼女はもう家に帰っているはずなので、あのベージュのパンプスがあるのは当然だ。大丈夫。あの女の靴ではない。強くそう心の中で唱えて栄は扉を開けた。
「ふは、」
その瞬間栄は思わず笑いをこぼす。視界に入ったのは、昨日腰を抜かした原因であるベージュのパンプスだ。しかし昨日と一つ違うのは、そのパンプスの中から小さなぬいぐるみが顔を出している。不細工なあざらしのキャラクターは見たことがあった。彼女がよくメッセージアプリで使うスタンプのキャラクターで、それが間抜けな顔をして栄を見ている。
彼女が昨日何か考えると言っていたが、これが答えということなのだろうか。
「あ、おかえり〜」
ひょっこりと顔を出したのは依子だ。あの時の女ではない。
「ただいま」
「それどう?かわいいでしょ」
「かわいい……うーん」
キャラクター自体は不細工なアザラシだが、それが栄の恐怖心を和らげてくれたのは事実だ。栄はうん。と頷くとパンプスの横に自身のスニーカーを脱いだ。アザラシを通り過ぎ依子の元へと歩を進めると、依子が一歩近づくべく前に出てこようとして慌てて引っ込んだ。
「ごめんまたストッキング一枚だわ」
「出てこないで」
一瞬、昨日見た彼女のストッキング姿を思い出す。微かに見えたであろう下着の色が思い出せないのは栄の精神衛生上、よかったのかもしれない。
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